「数学の歴史を1ミリでも前に進めたかった」「数学の歴史にひっかき傷をつけたかった」

「1ミリ」「ひっかき傷」。ささやかさを強調する言葉に、かえって歴史や真理の壮大さが際立った。

 ちなみにこの「ひっかき傷」はよほど私の心に響いたらしい。記者の仕事内容について6年前に受けたインタビューを読むと、自分が手がけた調査報道を「新聞記事が社会に『ひっかき傷』くらいの変化をもたらせることがわかりました」と得意げに振り返る言葉が残っている。

 数学の世界で最近注目を集めたものといえば超難問「ABC予想」だ。日本人研究者が証明したとする論文が専門誌に掲載される見通しになったと報じられた。実社会にどれだけインパクトがあるのか、記事を読んでも私にはわからない。だが政治家や捜査官といった形ある人間ばかり取材してきたせいか、そのつかみどころのなさに逆に魅力を感じてしまう。

 このコラムはがん患者として思い、考えたことを世間に向けてアウトプットしている。これに対し、人生を味わいつくすインプットが数学の勉強であり、場合によっては鴨せいろなのかもしれない。

 昼下がりのそば屋で、背中を丸めた一人のがん患者がズ、ズッとそばをすすっている。急に食べて胃が驚かないよう、少しずつ口に運んでいる。手元のバッグには財布に身体障害者手帳、食後の飲み薬、そして数学の新書。1ミリたりとも数学の歴史は進めないけれど、せめて先人がつけた「ひっかき傷」を指でなぞりたいと、愚かしくも思い定めている。

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野上祐

野上祐

野上祐(のがみ・ゆう)/1972年生まれ。96年に朝日新聞に入り、仙台支局、沼津支局、名古屋社会部を経て政治部に。福島総局で次長(デスク)として働いていた2016年1月、がんの疑いを指摘され、翌月手術。現在は闘病中

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