「学生の自分でも、こういう環境でプレーすることができれば、自分はもっと野球がうまくなる。そういうことが学生だとどうしてできないんだろう? そういうものが作れないのかな。ずっとそう思っていたんです」

 アマとプロをつなぐことができれば──。それは、野球界にとっての永遠のテーマでもある。1961年4月、社会人野球のシーズン真っただ中に日本生命の外野手・柳川福三が中日と契約。プロによる強引な選手引き抜きに反発した社会人側は、この「柳川事件」を機に翌62年からプロ球団退団者の受け入れを拒否。以来、プロとアマは事実上の断絶状態に陥った。また、1950年に制定された「日本学生野球憲章」でもプロ選手と学生との接触が厳しく制限されてきた。

 同じ競技でありながら、今も厳然と存在しているプロとアマを隔てるその『壁』を何とか崩せないのか。学生時代の体験から生まれた発想を形にしたいという思いを、高下は抱き続けてきたのだ。

 大学を卒業した高下は2009年に発足直後の関西独立リーグの明石へ入団し、2010年には同じ関西独立リーグの神戸に移籍。転機は、そのオフに訪れた。神戸は資金難から球団経営を断念しようとしていた。そんなとき、高下のもとへ思わぬ話が舞い込んできた。

「球団経営をやらないか?」

 関西独立リーグは2009年、神戸、明石、大阪、紀州の4球団で発足した。兵庫球団の前身である神戸9クルーズは、当時16歳の女子高生投手・吉田えりを獲得。ナックルボールを武器に男性選手に立ち向かうその可憐な姿は大きな話題を呼んだ。

 しかし、その華々しい船出の裏で、リーグも球団も資金難に苦しんでいた。開幕して1カ月足らずの5月に入っても、リーグ側が開幕に合わせて4球団に約束していた「3000万円」の分配金が振り込まれず、資金繰りがつかなくなった各球団が選手たちに給料が支払えない事態が発生した。リーグ代表は引責辞任。しかし、その後も状況は好転せず、翌2010年には選手の最低給与を月20万円から8万円にまで下げた。さらに同6月からは神戸、明石、紀州の3球団が全選手の「給与全額カット」が決定。プロを名乗りながら、報酬がゼロという異常事態に陥ったのだ。

 それでも、野球を続けたい。その強い意志を持った神戸の選手13人が結束、兵庫県三田市を本拠地とする新球団『兵庫ブルーサンダーズ』が創設された。高下は選手兼任で球団代表に就任。NPO法人での球団経営という、日本の独立リーグでも初の試みに挑んだ。

 選手給与は全員ゼロ。その厳しい環境の中、関西独立リーグ、BFLで今季までの7シーズンで5度の年間優勝を遂げている。その一方で「兵庫はボランティア活動が主なのか?」と言われるほど丹念な地域貢献活動を続け、本拠地の三田にとどまらず、篠山、西脇、猪名川、芦屋の周辺地域などでも野球教室を開催。選手たちは球団の活動に賛同した三田市内の企業や飲食店でアルバイトに従事するなど、地域とのつながりをしっかりと深めてきた。

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常識を越えた“ある構想”の浮上