にのみや「トラウマ記憶というのは、時間軸を持っていないのだそうです。そんな記憶だからいつでも生のまま、突如“いま”を侵食してきます。結果、フラッシュバックやパニック発作が起こる。そのたびに思い出させられるんです。事件そのものというよりも、加害者の存在を。まったく関係のない男性の顔が加害者に見えることもあります」

 対照的なのが、加害者だ。斉藤さんは12年間、再犯防止プログラムで加害者と向き合ってきた結果、加害者のなかに被害者は不在だ、と考えるに至ったという。

斉藤「彼らは、自分が加害した記憶を早々に放棄します。いじめられていた子が大人になってもそのことを忘れられないのに対し、いじめていた側は『そんなことあったっけ?』と忘れているのに似ています。再犯防止プログラムでは、みずからの加害行為に責任をとることを重視していますが、そもそも彼らが自分のしたことで迷惑をかけた、申し訳ないと思っているのは、第一が家族で、その次が仕事関係の人たち。被害者の存在はすっかり抜け落ちています」

にのみや「私もそうなのではないかと思いつつ、それでも淡い期待を捨てきれずにいました。加害者にずっと自分のことを考えていてほしいわけではないのですが、常に事件のことを後悔し、反省してほしい。謝罪してほしい。そしていつか心からの謝罪がほしい、とどこかで思っていました。でも、彼らは加害したこと自体を忘れてしまうんですね」

斉藤「期待は、私にもありましたね。でも加害者の実態を知れば知るほど認識が変わりました。『あなたたちは、こんなひどいことをしたんだ!』と責任を追及しても何も伝わらない。言葉やアプローチを工夫しないと、被害者に対する彼らの想像力はほぼ働かないんです」

 それだけ聞くと、加害者とはなんと酷い人間だろうと思えてくる。しかし、それは加害者にかぎったことだろうか。社会もまた、被害者や被害の影響についての知識がなく、想像力も欠如しているのではないか。そうでなければ、「もう忘れなさいよ」とはいえない。にのみやさんは、なんとかして被害の実態をわかってもらいたいとあがき続けた。

にのみや「被害に遭ったのを境に、私の世界から色が消えました。医師によるとこうした症状が出る人は少なくないそうですが、当時の私はそれを知らないから、どうやったらわかってもらえるだろう、と混乱しました。ある日、ふと手にした写真集がモノクロの作品で構成されていて……いえ、本当は色があったのに私には見えなかっただけかもしれませんが、これだ! と思ったんです。これなら私が見ている風景をわかってもらえる、と。すぐに撮影や現像に必要なものを取りそろえ、モノクロ写真を撮りはじめました」

 にのみやさんの作品群は、「被害の前と後とでは世界が一変する」ということを理屈ではなく教えてくれる。忘れたくても忘れられない、被害の記憶と痛み。性暴力、性犯罪はそれを抜きに考えることはできないということを、私たちは知らなければならない。(取材・文/ライター・三浦ゆえ)