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永井荷風は米国でブルースとロックの聖地を歩いていた

連載「六九亭日乗」

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永井荷風・著『あめりか物語』岩波文庫

永井荷風・著『あめりか物語』岩波文庫

大友博(おおともひろし)1953年東京都生まれ。早大卒。音楽ライター。会社員、雑誌編集者をへて84年からフリー。米英のロック、ブルース音楽を中心に執筆。並行して洋楽関連番組の構成も担当。ニール・ヤングには『グリーンデイル』映画版完成後、LAでインタビューしている。著書に、『エリック・クラプトン』(光文社新書)、『この50枚から始めるロック入門』(西田浩ほかとの共編著、中公新書ラクレ)など

大友博(おおともひろし)1953年東京都生まれ。早大卒。音楽ライター。会社員、雑誌編集者をへて84年からフリー。米英のロック、ブルース音楽を中心に執筆。並行して洋楽関連番組の構成も担当。ニール・ヤングには『グリーンデイル』映画版完成後、LAでインタビューしている。著書に、『エリック・クラプトン』(光文社新書)、『この50枚から始めるロック入門』(西田浩ほかとの共編著、中公新書ラクレ)など

 1903年の秋、シアトルからアメリカに入った永井荷風は、50キロほど南に位置するタコマのハイスクールで英語を学びながら、同地域で約1年を過ごしている。それから約40年後の1942年、シアトルで生まれたのが、ジミ・ヘンドリックス。恵まれた家庭環境ではなかったものの、早くから音楽に興味を持つようになった彼は、市内のガーフィールド・ハイスクールに進んだころからギターにのめり込んでいったようだが、同校の先輩にはあのクインシー・ジョーンスがいて、彼とレイ・チャールズが親交を持つようになったのも、シアトルでのことだった。

 また、日本の音楽文化に多大な影響を与えたザ・ベンチャーズは1950年代末にタコマで結成され、しばらくはシアトル周辺で活動をつづけていた。それはちょうどジミがギターを手にしたころのことであり、ひょっとすると、彼はどこかでベンチャーズのライヴを観ていたかもしれない。

 1970年秋に急逝したジミの墓は、シアトルとタコマのほぼ中央に位置するレントンという町のグリーンウッド・メモリアル・パークにある。生誕50年の1992年に訪ねたときは、ほぼ雑誌大のプレートが置かれただけで、海からの風に乗って静かに「リトル・ウィング」や「エンジェル」が聞こえてくるような感じだったが、現在は、写真で見るとかなり立派なモニュメントになってしまっていて、ちょっと残念。

 荷風に話を戻すと、渡米から1年後の1904年秋、彼はタコマから列車でセントルイスに向かっている。モンタナを経由してミネソタ州に向かい、そこからミシシッピ川沿いにセントルイスを目指したようだが、この後半は、のちにハイウェイ61と呼ばれることになるルートとほぼ同じ。つまり、若き日のボブ・ディランがニューヨークに向かったときにたどった道と同じ、ということだ。

 セントルイス行きの目的は、万国博覧会の見学。実業を身につけさせるためにアメリカに送り出した父の意思を受けてのことと思われ、もちろんいろいろと刺激を受けたはずだが、それよりも興味深いのは、そこで彼がミシシッピの流れを見つめながら「このままニューオーリンズに行ってしまおうか」と真剣に考えていたということだ。


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