珍名踏切マニアがいく! 「古代文字踏切」だけが知っている消えた遺跡 〈dot.〉|AERA dot. (アエラドット)

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珍名踏切マニアがいく! 「古代文字踏切」だけが知っている消えた遺跡

連載「珍名踏切が好き!」

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今尾恵介dot.#今尾恵介#珍名踏切#鉄道
函館本線の蘭島駅。小樽駅から普通列車で2つ目19分

函館本線の蘭島駅。小樽駅から普通列車で2つ目19分

かつての畚部村も今は「栄町」。半ば廃道化した道をたどれば……

かつての畚部村も今は「栄町」。半ば廃道化した道をたどれば……

古代文字踏切。あちら側へ自動車で進入するのはためらわれる

古代文字踏切。あちら側へ自動車で進入するのはためらわれる

フゴッペ洞窟の博物館。新しい建物で洞窟を覆っている

フゴッペ洞窟の博物館。新しい建物で洞窟を覆っている

今回紹介した踏切周辺の地図

今回紹介した踏切周辺の地図

 踏切の名称に惹かれて何十年の、いわば「踏切名称マニア」である今尾恵介さんが、全国の珍名踏切を案内してくれる連載。今回は北海道余市町の「古代文字踏切」踏切を紹介します。

【古代文字踏切や周辺の写真・地図はこちらから】

*  *  *
 踏切の名前には地名や道路名が採用されることが多く、中には消えた地名や使われなくなった街道名もあって興味深い。◯◯神社踏切、◯◯学校踏切のような施設名も全国でよく見かけるが、こちらもやはり鉄道開通時にはあったけれど今は移転してしまった施設を記念碑的に名乗る例は珍しくない。

 しかし、中にはこういった分類からはみ出してしまう踏切も存在する。例えば、友人に教えてもらった北海道余市町の「古代文字踏切」などは、地名でも道路名でも施設名でもなく、そもそも古代文字と言われても皆目見当が付かない。そこで、現地まで足を運び、その謎を解いてみることにした。

最寄り駅は小樽市内最西端にあたる函館本線の蘭島(らんしま)駅で、そこから2キロ弱も歩けば「古代文字踏切」にたどり着く。9月28日。小樽から2両編成の長万部行き普通列車で降り立つと、曇りの天気もあって本州より一足先の秋風が肌寒かった。無人駅なのでどこからでも出入り自由で、もう1人降りた老爺はホームの先へどんどん歩いて行った。そちらの方が家に近いのだろう。私ひとり跨線橋(こせんきょう)を渡り、ペンション風のやや場違いな新しい駅舎を通り抜けた。

 短い駅前通を抜ければすぐ国道5号である。函館と札幌を結ぶ「天下の1ケタ国道」だけあって交通量は多くスピードも出ているだけに、あちら側へ渡るタイミングをとるのは難しい。がらんとした駅とは対照的である。蘭島川の橋を渡り、岬の根元を短いトンネルでくぐった。坑口の上部に掲げられた扁額(へんがく)の「畚部隧道」の「畚部」は、フゴッペと読む難読地名だ。そこだけ歩道がないのでトラックなどが高速で抜ける脇を歩くのは恐ろしい。

 このトンネルを出ると余市郡余市町に入る。海風が吹き付けるバス停が「栄町(さかえまち)」であるのは違和感を覚えたが、周囲には家々が数軒点在していて寺もあり、懸命に栄えている。このままクルマの多い道を直進して左折すれば、すぐに件の踏切にたどり着けるのだけれど、そこを通る細道(地形図では1本線[1車線道])を山側からアプローチした方が面白そうだ。

 そこで栄町稲荷(いなり)神社と永福寺のある方へ左折、南下して函館本線の踏切を渡った。蘭島トンネルの西口が間近で、線路も先ほど国道でくぐった細長い尾根を貫いている。踏切の名はトンネルと同じ畚部踏切。調べてみると「栄町」という町名は昭和30(1955)年まで畚部を名乗っていた。字が難しくかつ難読なので変更したのかもしれない。フゴッペの地名は、『北海道地名分類字典』(本多貢著/北海道新聞社)によれば、(1)フム・コイ・ペ(波の音が高い処)、(2)フンキ・オ・ペ(番人が見張りする処[境界争いに由来])、(3)フンコベ(トカゲ)と諸説あるようだが、畚部トンネルから見た岬の形状がまさにトカゲの頭そっくりだったので、気分としては(3)を採りたい。

 その先の水車橋で畚部川を渡り、フルーツ街道(広域農道)の高架橋の手前を右折、さらに地形図通りに踏切へ通じる細道へ入ろうとしたが、あるはずの道はトウモロコシ畑の脇の細長い空き地といった風情。さらに入ってみると草が生い茂った中に2本の轍(わだち)が見える。半ば廃道ながら道であることは間違いない。

 森に入って少しばかり心細くなった頃に突然現れたのが、踏切の標識であった。蒸気機関車をあしらった旧版で、そのすぐ先に枕木を並べたような簡易な踏切が姿を見せた。警報機も据え付けられているが傍らに通行止の道路標識があり、「この踏切には敷板がありませんので車両は通行できません 12月15日から3月31日まで」とある。標識に反して敷板はあるものの、先ほどの廃道のような道にクルマで進入する人はいないだろう。踏切プレートは2カ所あり、線路の南側には青いブリキ板らしきものに白い手書き文字で「古代文字」と記された古いのと、北側には共通様式の黄色プレートに「古代文字踏切 237K007M」(函館起点)の表示が付けられていた。

 さてこの古代文字の謎は、踏切の北側すぐ目の前の建物「国指定史跡 フゴッペ洞窟」の博物館で解明された。洞窟は昭和25(1950)年に考古学少年だった大塚誠之介氏が発見した土器片がきっかけで発見されたもので、翌年に北海道大学名取助教授を団長とする調査団が発掘した結果、国内最大級の刻画のある洞窟遺跡として知られるようになった。今では博物館がその洞窟を覆うように建ち、刻画を保護している。

 ところが博物館でもらったパンフレットには「岩壁に刻まれた絵(岩面刻画)」という表現はあるのだが、古代文字の表記はない。後で調べてみると、フゴッペ洞窟とは別に「畚部遺跡」という存在が間近にあったそうだ。ネットに載っていた昭和2年(1927)11月14日付の小樽新聞の記事には、「神秘を語る古代文字」などの見出しがあり、扱いはかなり大きい。記事によれば保線を担当している宮本義明氏が土砂採り作業中にこれを見つけ、後に小樽高等商業(現小樽商大)の西田彰三教授が、明治期に発見された小樽市の手宮洞窟と同種の「古代文字」と認定したという。

 手宮洞窟の「文字」も戦前には近年の落書き説もあったが、昨今では手宮洞窟、フゴッペ洞窟ともに1600年ほど前の続縄文時代(本土とは時代区分が異なる)に彫られたものとの評価が定まったようで、アムール川周辺などの岩壁画と共通する舟、魚、人などの絵柄から、環日本海の広い文化圏に暮らした人たちが、祈りや願いなど何らかの動機で刻んだ絵であると解釈されている。

 ということは、やはり「古代文字」を名乗ったこの踏切も、きっと保線の宮本さんが発見した昭和の初め頃に命名されたのではないだろうか。建物の庇護の下で大切にされているフゴッペ洞窟と違って、ニセモノ扱いなどで疎略に扱われた畚部遺跡の方は消えてしまったという。そうなるとここも「記念碑踏切」であるが、そもそも踏切南側の道が廃れつつある現状を考えれば、踏切の将来は心配だ。いや、昨今のJR北海道の置かれた厳しい環境を考えれば、線路そのものの維持も……。マニアとしては心配事が耐えない。


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今尾恵介

今尾恵介(いまお・けいすけ)/1959年神奈川県生まれ。地図研究家。明治大学文学部中退。中学生の頃から国土地理院発行の地形図や時刻表を眺めるのが趣味だった。音楽出版社勤務を経て、1991年にフリーランサーとして独立。音楽出版社勤務を経て、1991年より執筆業を開始。地図や地形図の著作を主に手がけるほか、地名や鉄道にも造詣が深い。主な著書に、『地図で読む戦争の時代』『地図と鉄道省文書で読む私鉄の歩み』(白水社)、『鉄道でゆく凸凹地形の旅』(朝日新書)など多数。現在(一財)日本地図センター客員研究員、(一財)地図情報センター評議員、日本地図学会「地図と地名」専門部会主査

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