珍名踏切マニアがいく! 消えた地名ばかりの踏切 (1/2) 〈dot.〉|AERA dot. (アエラドット)

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珍名踏切マニアがいく! 消えた地名ばかりの踏切

連載「珍名踏切が好き!」

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原踏切 西大井駅のすぐ南側にある。かつての荏原郡大井町字原(後の大井原町)にちなむ。上は新幹線

原踏切 西大井駅のすぐ南側にある。かつての荏原郡大井町字原(後の大井原町)にちなむ。上は新幹線

下村踏切 大字下蛇窪の字下村通にちなむ。左へ行けば東急大井町線の戸越公園駅

下村踏切 大字下蛇窪の字下村通にちなむ。左へ行けば東急大井町線の戸越公園駅

第2北三ツ木架道橋 こちらも小字由来の架道橋で、正面がかつて両親が住んだアパート付近

第2北三ツ木架道橋 こちらも小字由来の架道橋で、正面がかつて両親が住んだアパート付近

今回紹介した踏切周辺の地図

今回紹介した踏切周辺の地図

今回紹介した踏切周辺の地図

今回紹介した踏切周辺の地図

 踏切の名称に惹かれて何十年の、いわば「踏切名称マニア」である今尾恵介さんが、全国の珍名踏切を案内してくれる連載。今回紹介する品鶴線沿線には、消えた地名で呼ばれる踏切と架道橋が多くある。正確にルーツをたどるのは難しいが、幾度も変化し続けた街の名残に、今尾さんが馳せた思いとは……。

【地図や他の踏切写真はこちらから】

*  *  *
 品鶴線をご存知だろうか。正式な線名ではないが品川から鶴見を結ぶ東海道本線の貨物線で、線名はその頭文字を連ねたものである。開通は昭和4(1929)年で、当時急速に工業化が進んでいた日本の鉄道貨物の大動脈として、特に混雑が激しかった京浜間の輸送力アップのために建設されたものだ。

 長いこと貨物専用線であったが、東海道本線の混雑を受けてまず昭和55(1980)年から横須賀線がこちら経由で走るようになり、現在では湘南新宿ラインや成田エクスプレスなども含む多くの電車が頻繁に走っている。現在の沿線はほとんど家が建て込んでいるが、開通当時はまだ荏原郡内で空き地も目立っていた。

 踏切や道路を跨ぐ架道橋には当時の小字などの地名が付けられている。今回は、特にそれが集中している西大井駅から大崎駅あたりにかけてのエリアを歩いてみることにしよう。実は私の両親が新婚当初に品鶴線のガードの目の前に住んでいたこともあり、いずれ足を運んでみたかったのである。

 降り立った西大井の駅は昭和61(1986)年になって設置された新しいものだが、東京駅までわずか14分ほどと至便の地だけに、駅周辺はマンションの進出が目立つ。線路が開通したばかりの頃は畑も目立つ地域だったようだが、当時からこの一帯はまさに未曽有の人口激増に直面していた。これは決して大袈裟な表現ではない。実際に地元の荏原郡荏原町(旧平塚村)は、大正9(1920)年から昭和5(1930)年までの10年間で15.5倍という、現在の23区エリアでは最大の増加率を記録しているのだ。

 都内に6つある品鶴線の踏切に採用されている地名は、現在ではことごとく使われていない。まず訪ねたのは西大井駅すぐ南側の「原踏切」。名前としては珍しくもなんともないけれど、今はなき大井原町(現西大井二丁目ほか)を今に伝える貴重なものである。昭和7(1932)年に東京市品川区に編入される以前は荏原郡大井町の字(あざ)原。通りのすぐ西側は「伊藤博文公墓所」つまり初代首相の墓地で、昭和39(1964)年までは大井伊藤町(現西大井六丁目ほか)と称した。町名は昭和7(1932)年に東京市同じく品川区に編入された際に伊藤公を記念したもので、以前は字(あざ)谷垂と字篠谷と称した。そして踏切の東側が大井原町(現西大井二丁目ほか)で、こちらは編入以前の字原である。


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