シェイクスピアが参考にしたのは『プルターク英雄伝』で、クレオパトラが、死刑囚を最小の苦痛で処刑するためにあらゆる毒薬に興味を持って試験し、その結果aspicの毒が最善であること、すなわち眠くなるだけで苦痛がないことを知っていたからとしている。本当にアスプコブラの毒は苦痛を与えないのだろうか。

 地球上には2600種以上のヘビが知られているが、毒を持つのは約450種とされている。中でもコブラ科に属する蛇は毒性が強く、半致死量(LD50)で数ng/kgから数mg/kgとされている。コブラ咬傷の致死率はインドで約10%とされるが、神経・筋接合部のアセチルコリンレセプターを遮断するため呼吸筋の麻痺をきたし、死に至るまで、苦痛がないとは考えられない。楽な方法ならば他にも模倣者が出てきそうだが、歴史的にもクレオパトラの他にはヘビで自殺した例はなく普及しなかった。お決まりのPubMed(論文データベース)で検索しても、蛇毒による自殺の成功例はない。

 クレオパトラに関する医学論文はほとんどないが、シカゴのロヨラ大学精神科のOrlandらは、同時代の資料から、彼女が非常に高い知性と行動力の持ち主であり、プライドの高さと自己愛がその自殺の原因としている。

 コブラは古来、上下ナイルの支配者としてエジプトの王冠を象徴するものであり、彼女の最後の自己主張だったのではあるまいか。多くの自殺者は死ぬという目的以外に、死の方法自体で何らかのメッセージを残す。クレオパトラの場合、自殺が未遂に終わればかつて最高権力者カエサルの愛人として、またオリエントの女王として栄華を尽くしたローマに連行され、今度は捕虜として蛮人の族長と同様に晒し者になったはずである。このような屈辱は、誇り高いエジプトの女王には耐えられない。

 証拠はないが、彼女の演技的性格からすると、毒物の内服など外傷をきたさず確実に死に至る手段をとったうえで、古代から続くエジプト王朝の最期をそのシンボルであるコブラに託したというのが真相ではあるまいか。

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早川智

早川智

早川智(はやかわ・さとし)/1958年生まれ。日本大学医学部病態病理学系微生物学分野教授。医師。日本大学医学部卒。87年同大学院医学研究科修了。米City of Hope研究所、国立感染症研究所エイズ研究センター客員研究員などを経て、2007年から現職。著書に戦国武将を診る(朝日新聞出版)など

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