ところが、書き終えてなお心にくすぶるものがあった。自分の内面を掘り下げるばかりではなく、目をもう少し外にも向けるべきではないか、という思いだ。なにせ自分は階段を降りつつある。(誰でもそうだけれど)人生の時間は限られているのだ。

 考えついたのが、もしも共謀罪が社会をむしばむ「がん」だったら、という前回の話だ。仮にそうならば、法律ができてもまだ病気にかかったに過ぎない。自分は毎週のように血液検査を受け、35項目もの数字をチェックしている。そのように法律をめぐる動きを幅広く定点観測し、大きな動きがあるときに限らず、定期的に報じてはどうか――。

 そう記したコラムには、思ってもみなかった人から好意的な反応があった。霞が関で働く知人からもメッセージが届いた。「この法律は定点観測が必要。息の長い取り組みは新聞だからこそできることだ」とあった。

 記事は世の中を一方向に変えようと書くものではない。以前、「記事を書いたら、祈る」と題したコラムにそう記したことがある。変わってくれたらと記事に思いを込めつつ、あとは読者にゆだねる。暗闇の池へ念じながら小石を投じるような気持ちを「祈る」と表現した。

 あるだけの小石を放り続けようと思う。どんな波紋がどれだけ池に広がるか。それはわからないけれど。

著者プロフィールを見る
野上祐

野上祐

野上祐(のがみ・ゆう)/1972年生まれ。96年に朝日新聞に入り、仙台支局、沼津支局、名古屋社会部を経て政治部に。福島総局で次長(デスク)として働いていた2016年1月、がんの疑いを指摘され、翌月手術。現在は闘病中

野上祐の記事一覧はこちら