岩倉使節団。左から木戸孝充、山口尚芳、岩倉具視、伊藤博文、大久保利通 (C)朝日新聞社
岩倉使節団。左から木戸孝充、山口尚芳、岩倉具視、伊藤博文、大久保利通 (C)朝日新聞社

 歴史上の人物が何の病気で死んだのかについて書かれた書物は多い。しかし、医学的問題が歴史の人物の行動にどのような影響を与えたかについて書かれたものは、そうないだろう。

 日本大学医学部・早川智教授の著書『戦国武将を診る』(朝日新聞出版)はまさに、名だたる戦国武将たちがどのような病気を抱え、それによってどのように歴史が形づくられたことについて、独自の視点で分析し、診断した稀有な本である。本書の中から、早川教授が診断し明治の元勲、岩倉具視の症例を紹介したい。

* * *
【岩倉具視(1825~1883)】

 今ではありえないが、筆者が研修医だったころ、よほど早期でない限りは患者さんに「がんの告知」をしなかった。「放置すると悪性化する」とか、「極めて悪性度の高い前がん状態」とか言って手術の承諾をもらったものである。一番困ったのは再発や手術不能の患者さんで、「術後の癒着」とか「抗がん剤の副作用」といった苦しい説明をしたことを覚えている。

■日本初のがん告知

 日本で最初に西洋医学的ながん告知を受けたのは、明治の元勲、岩倉具視であろう。東京帝国大学のお雇い医師ベルツは、明治16年(1883年)初め、ドイツ公使館で一人の若い貴族から父親の病気について相談を受けた。年齢が52歳(これはベルツの聞き誤りで実際は数えの59歳)で、数カ月前から食事が飲み込みにくくなったという。

 ベルツはすぐに受診するよう勧めるが、連絡なく半年が過ぎた。すると宮内省から、京都で静養している岩倉公を往診し、東京に連れて帰るようにという依頼があった。岩倉はやせ細り、著しい衰弱状態にあった。進行した食道がんだったのである。

 ベルツは診断がついた後、「お気の毒ですがご容体は今のところ絶望的です。これを申し上げるのは、閣下がそれを望んでおられるからであり、またあなたはそれを知りたいわけがあること、あなたが死を恐れる方ではないことを存じ上げているからです」と話した。岩倉は深く感謝し、「これは一身のことではない」として、国家組織が未熟であり、政敵ながらも後継者に目していた伊藤博文が憲法調査の外遊から帰るまで自分の生命がもつかどうか尋ねた。ベルツは「全力を尽くして治療します」と約束したが、1カ月後の明治16年7月20日、遺言を参議井上馨に託して死去した。

著者プロフィールを見る
早川智

早川智

早川智(はやかわ・さとし)/1958年生まれ。日本大学医学部病態病理学系微生物学分野教授。医師。日本大学医学部卒。87年同大学院医学研究科修了。米City of Hope研究所、国立感染症研究所エイズ研究センター客員研究員などを経て、2007年から現職。著書に戦国武将を診る(朝日新聞出版)など

早川智の記事一覧はこちら
次のページ