信長没後、混乱する甲斐・信濃を獲得し、信長の次男・信雄を擁して羽柴秀吉と小牧・長久手の合戦で対決。局地的には勝利を得たものの膠着状態が続いたため、和睦上洛し秀吉に臣従する。北条氏滅亡後は、関東に転封され本拠を江戸へ移す。秀吉の死後、政権運営を巡って他の大老や五奉行の石田三成らと対立するが、持ち前の政治力で豊臣恩顧の諸大名を味方につけ関ケ原の戦いで覇権を確立した。慶長8年(1603年)、征夷大将軍・右大臣に任じられて江戸幕府を開き、同10年三男秀忠に将軍職を譲って徳川家による将軍職の世襲を確実なものとした。そして2度の大坂の陣で豊臣氏を滅ぼし、天下統一を達成。その年のうちに、武家諸法度・禁中並公家諸法度・一国一城令など徳川政権による日本全域の支配を実現した。

■天下人の最期

 元和2年(1616年)、太政大臣に任ぜられる。ここで再び茶屋四郎次郎(代は変わり前出の清延の息子)が、正月に京で流行の食べ物である鯛の天ぷらを献上し家康は大変喜んだという。

 しかし、翌朝未明に激しい腹痛を起こした。病状は一進一退を繰り返したが、4月に駿府城で亡くなっている。

 多くの医史学者は胃や食道にもともと腫瘍があったところに、消化の悪い食べ物で通過障害や腸閉塞(イレウス)をきたしたのではないかとしている。ただ、その場合4カ月の経過は長過ぎるように思われる。脂肪分の多い食事に続く急性腹症として、胆石や急性膵炎も可能性に入れてよいのではないか。家康が中高年期に非常に肥満して下帯も締められなかったところ、晩年は食欲不振が進行してげっそりと痩せたことや、病状が軽快と増悪を繰り返していることから、胆石は一旦排出しても胆道系あるいは膵に悪性腫瘍があったとして矛盾しない。筆者は最終死因は天婦羅とは無関係の腫瘍と考える。

 しかし、家康の享年75は徳川15代の将軍の中で慶喜(77歳)につぐ第二位である。定年のない戦国時代、ライバルよりも健康で長生きするのが勝利への道であった。家康が、日頃から健康に気を付け、長寿を保ったことが天下取りレースの最終勝者となった理由であろう。若き日のライバルだった武田信玄や上杉謙信、北条氏康には戦場ではとても敵しえなかったが、彼らがすべて40~50代で病死し、同盟者とはいえ頭を押さえられていた信長が本能寺に倒れ、天下の主秀吉が63歳で老衰死、最後のライバル前田利家が64歳(62歳との説もある)で病死すると経験と人望において彼にかなう武将は誰もいなかった。天下統一を成し遂げた後の正月の宴がterminatorとなったとは以って瞑すべし。

著者プロフィールを見る
早川智

早川智

早川智(はやかわ・さとし)/1958年生まれ。日本大学医学部病態病理学系微生物学分野教授。医師。日本大学医学部卒。87年同大学院医学研究科修了。米City of Hope研究所、国立感染症研究所エイズ研究センター客員研究員などを経て、2007年から現職。著書に戦国武将を診る(朝日新聞出版)など

早川智の記事一覧はこちら