「戦争の死者たちは、自分がこの業苦を受忍すれば、死後の日本は平和に栄えるはずと信じて死んだのか」

「戦後は、尊い犠牲のお陰で築かれたのではなく、無数の不条理な死にもかかわらず、別の国の新たな戦争景気で潤い、図らずとも幸せを享受してしまった。『礎論』は、生き残った者たちがやましさを取り繕い、因果をすり替えて唱和しているのではないか」

 私はこの文章を読んで、頭をガツンと殴られたような気がした。私自身は「やましさ」があって、「たくさんの人々の尊い犠牲の上に、今の平和がある」と考えていたわけではない。しかし戦争で命を失った人々を「尊い犠牲」としてまつり上げていたことに変わりはない。しかもそこでは、無意識のうちに「日本人」ばかりに目が向いていた。そのことを改めて突きつけられた気がして、これまでの自分を恥じずにはいられなかった。

 伊藤さんの言葉を引き受けながら、自分なりに考えたことがある。それは、「たくさんの人々の尊い犠牲の上に、今の平和がある」という思考は、過去の「戦争」という出来事を見えにくくするだけでなく、現在を生きる私たちと「戦争」とのつながりを見えにくくしてしまうのではないかということだ。

 戦争による「傷」に苦しめられている人は、今日に至っても多くいる。「戦争」が敗戦とともに終わりを迎えたわけではない。目には見えない形で「戦争」は続いている。

 原爆や在日米軍基地、在日コリアンへの差別などの問題を思い浮かべれば、そのことは容易に理解できるはずだ。日常的にニュースで取り上げられている「北朝鮮の脅威」だって、植民地支配の産物ではないか。私たちの目の前にある現在は、過去と切り離して、「平和」と簡単に割り切れるようなものではない。

 広島、長崎の原爆の日が過ぎ、今年も8月15日を迎えようとしている。

「亡くなられた方々の犠牲の上につくられた今の平和」

「尊い犠牲の上に、私たちの平和と繁栄があります」

 かつて私が作文に書いたものと同じような言葉を、今年もすでに目にした。おそらくこれらは真摯な心のうちから発せられたものなのだろう。しかしそのような言葉は、私たちが「戦争」を理解することを阻むものになっているような気がしてならない。

 もちろん今を生きる私たちが「戦争」を理解するなど、そもそも困難なことなのかもしれない。だからと言って安易な言葉で満足していてはいけないと私は思う。歴史の中に埋もれた個々人の小さな物語に寄り添い、被害だけでなく加害の側面にも目を向けながら、過去と現在とのつながりに思いを馳せることもできるのではないだろうか。

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諏訪原健

諏訪原健

諏訪原健(すわはら・たけし)/1992年、鹿児島県鹿屋市出身。筑波大学教育学類を経て、現在は筑波大学大学院人間総合科学研究科に在籍。専攻は教育社会学。2014年、SASPL(特定秘密保護法に反対する学生有志の会)に参加したことをきっかけに政治的な活動に関わるようになる。2015年にはSEALDsのメンバーとして活動した

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