カープの守護神となった津田は、89年には51試合に登板して12勝5敗28セーブ、防御率1.63の好成績で当時、最優秀救援投手に贈られたファイアマン賞を受賞した。しかし、翌90年は右肩、右膝と相次ぐ故障で4試合の登板に終わり、大野豊とのダブルストッパー構想で臨んだ91年に、開幕から2試合に登板したのみで戦線離脱。地元での巨人戦で原辰徳に逆転打を打たれたのを最後に、そのまま津田がマウンドに戻ってくることはなかった。

 登録抹消時には水頭症と発表され、引退扱いの準支配下登録選手となったが、実はすでに脳腫瘍を発症していた。その年のオフには、津田本人が退団届を提出し、任意引退選手となった。この年のシーズン中に津田の本当の病名を当時の山本浩二監督がナインに告げ、「津田のために頑張ろう」と一丸になったチームは、86年以来となるリーグ優勝を達成した。

 リリーフ転向後の津田は、投球の90パーセント近くがストレートと言われ、その剛球は数々の伝説をつくった。86年には当時、2年連続三冠王に輝くなど阪神史上最高の助っ人と言われるランディ・バースを相手に、すべて150キロを超えるストレートで3球三振に打ち取った。試合後のバースは「ツダはクレイジーだ」とコメントを残した。

 さらに同じ年の巨人戦では、津田のストレートをフルスイングでファウルした原辰徳が、左手の有鈎骨を骨折した。津田の現役生活最後の対戦打者となった原だが、その負傷を境に、引退まで自分本来のスイングができなくなったと、のちに述懐している。

 マウンドでは闘志あふれる投球で、時には相手打者に対して、敵意をむき出しにすることもあった津田だが、普段は優しい性格で、気の弱い面もあった。その津田が座右の銘としていたのが「弱気は最大の敵」。高校時代に指導を受けたコーチに贈られたというその言葉は、津田の死後、旧市民球場時代にブルペン脇に設置され、現在もマツダスタジアムのブルペンの入り口にある「津田プレート」に刻まれている。

 広島を任意引退となり、死去まで約2年間の闘病生活を送った津田は、一時は奇跡的な回復を見せ、復帰のためのトレーニングを行っていたという。しかし、再び病状が悪化し、1993年7月20日に帰らぬ人となった。その日は、プロ野球が最も注目される日でもある、オールスター第1戦が行われた日だった。