それまで、国鉄の車両の色は「ぶどう色2号」と呼ばれる、茶色い武骨な色が主流でした。当時は写真にもカラーフィルムが登場していましたが、モノクロで撮ってもカラーで撮ってもあまり違いません。当時まだ主流だった蒸気機関車がその最たるものですね。プレートが金色なので、そこだけはカラーで撮ると違いが出ますが、かえってモノクロで撮ったほうが味が出る気がします。このように、モノクロが主流だった車体に、101系の登場によって、オレンジやカナリアといった色がつくようになりました。初めて見た時、なんてカラーリングが綺麗なんだろうと感動したものです。

 このように明るい色が車体に塗られるようになったのは、1950年の東海道線の「湘南色」が始まりではないでしょうか。これは濃いオレンジと濃いグリーンのツートンカラーで、現在の東海道線の路線カラーにもなっています。当時東京から小田原方面に向かう東海道線は「湘南電車」と呼ばれ、石原裕次郎や加山雄三といった大スターに影響を受けた「太陽族」に人気でした。世代としては僕よりも少し上にあたりますが、小さいころの記憶として鮮明に残っています。

 鉄道だけでなく、東京の道路事情もオリンピックを機に変わりました。僕は世田谷区の二子玉川というところに住んでいたのですが、僕の住んでいたところでも国道246号が拡幅し、環状7号線がつくられました。マイカーブームが起き、自動車の台数も増えました。オリンピック後、自動車は増え続け、渋滞が問題視されるようになりました。

 そんな中、スペースを占拠する路面電車は次第に敵視されるようになっていきました。もちろん軌道の上を自動車が走ることは可能なのですが、基本的にはそこの部分を撤去すれば道路はもっと広くなると考えられていました。そのほうが車はもっと楽に走れるし、バスも走れるというわけですね。

 今の東急田園都市線の地上部分にあたる国道246号にも「玉川電車」(玉電)と呼ばれる路面電車が走っていましたが、玉電も例に漏れず、「ジャマ電」と呼ばれていました。結局、玉電はオリンピックから5年後の1969年5月に、首都高速3号渋谷線の工事等に伴い、現在残る三軒茶屋―下高井戸間を除いて廃止されることになりました。引退の時のイベントに僕も行きましたが、惜別の思いが強い人よりも、「ああこれで邪魔なのが消えた」と思っている人のほうが多かったように思います。高度経済成長期は明るい話題のほうが多いですが、この出来事は僕の中で負の象徴となる残念な思い出かもしれません。写真を見ると、鮮明によみがえってきますね。(構成/河嶌太郎)

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向谷実

向谷実

向谷実(むかいや・みのる)/1956年、東京都生まれ。77年に「カシオペア」のキーボーディストとしてデビュー。95年に世界初の実写版鉄道シミュレーションゲームを発売。鉄道各社に技術を評価され、運転士の教育用シミュレーターなども開発する

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