2011年、今度はなでしこジャパンがFIFA 女子W杯ドイツ大会で優勝した。チームでのトレーニングもあって、日本時間の深夜におこなわれた試合をリアルタイムで見ることはほとんどできなかった猶本だが、メディア、そして世間の盛り上がりを見ながら、「すごい!」と感動した。しかし、それは一瞬だった。

「はじめは『すごい!』と思いましたが、すぐ、その場にプレーヤーとして立ち会えなかったことが悔しくなりました。私くらいの年齢(当時17歳)の選手がフル代表でプレーするのは、世界では当たり前のことですから」

 翌2012年、首都圏への大学進学を機に、なでしこリーグ屈指の強豪チーム、浦和レッズレディースへ移籍。より高いレベルの環境に身を投じて「その場」を目指す。ロンドン五輪が終わった直後、日本でFIFA U-20女子W杯が開催された。猶本は「ヤングなでしこ」と名付けられた20歳以下の日本女子代表チームの主力として参戦。地元開催のプレッシャーに負けず、超攻撃的サッカーのタクトをふるい、銅メダル獲得に貢献した。

 このU-20女子W杯での活躍と、端正なルックスの相乗効果で、この辺りから猶本人気が沸騰。ポジションが同じボランチという連想から「澤穂希の後継者」と称されるようになった。しかし、平坦な高速道路はここまで。ここから先は、山あり谷ありだった。

 2013年はケガに見舞われ、浦和での公式戦出場は僅か7試合に留まった。左腕にキャプテンマークを巻いて臨んだ、秋の国際大会、AFC U-19女子選手権でも、まさかの4位に沈んでしまう。自身2度目の出場を目指したU-20女子W杯の出場権を逃し「強い責任感の持ち主だからショックは大きく、代表から戻ってきても完全に自信を失っていた。だから、しばらく休ませたほうがいいと思って、ウチでも無理に使わなかった」(吉田靖・浦和レッズレディース前監督)。

 こうした周囲のケアも功を奏したか、翌2014年、猶本は完全に蘇った。なでしこリーグの開幕戦で浦和は、INAC神戸レオネッサと対戦。澤穂希らを擁してリーグ戦3連覇中のチームを、激しい点の取り合いから降した。決勝点は、試合終了間際に猶本が放った、強烈なミドルシュートだった。この勝利で勢いに乗った浦和は、同年のエキサイティングシリーズで優勝。5年ぶりのリーグ制覇を果たし、自身も初の年間ベストイレブンに選出された。

 なでしこジャパンでチャンスを与えられるようになったのもこの年だ。5月8日、ニュージーランドとの親善試合で、初めてAマッチに出場。続く女子W杯カナダ大会の出場権を賭けた、アジアカップ(ベトナム開催)にも参加した。女子W杯出場権を手に入れたグループリーグ最終戦(ヨルダン戦)では、初の先発も経験している。秋には親善試合のガーナ戦、続くアジア大会のチャイニーズ・タイペイ、香港、ベトナム戦でキャップ数を増やしていった。それでもアピールが十分だったとは言い難い。

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