・史料は聞き書きなので、江戸時代の井伊家の家臣にこうした伝承があったといったことは分かっても、信憑性は薄い。

・仮に、新野左馬助親矩のおいが井伊次郎を名乗ったとしても、新史料で「井伊次郎=直虎」という記述はない。

・井伊氏の惣領の仮名(けみょう)は代々、「次郎」で、だからこそ、龍潭寺(りょうたんじ)の南渓和尚も、惣領直盛の一人娘の出家に際し、次郎法師という名を与えた。次郎法師がいるのに、別の人間が次郎を名乗るとは考えにくい。

 新たに見つかった史料が1735年(享保20年)に編集されたものである点から小和田氏は、「江戸時代の人にとっては“おんな城主”の存在を考えにくかったのでは? 大名の無嗣断絶の例が多く“家督は男が継ぐ”という先入観があり、このような伝承ができたとも考えられる」と指摘する。そのうえで、あらためて「次郎法師(直虎)が一時的にではあれ、井伊谷を支配していたことは次郎法師の印判状(『龍潭寺文書』)の存在によって明らか」と、「直虎=おんな城主」説を力説した。

戦国時代、女性が家督を継いだ例は少なくない。赤松政則の妻・洞松院尼(とうしょういんに)、今川義元の母・寿桂尼(じゅけいに)、岩村城主・遠山景任の正室などがいる。合戦で多くの男性が亡くなった時代である。“おんな城主”は正式な跡取りというより、後継者が幼かったり、病弱だったりするなど、それぞれのお家事情があって背に腹は代えられず、女性のリーダーでしのがざるを得なかった結果。いわば“中継ぎ”であり、直虎もそうだったと思われる」(小和田氏)

 小和田氏が「直虎=おんな城主」という説を初めて公表したのは、四半世紀前のこと。静岡県の旧引佐町が浜松市に編入合併される前、引佐町史の編纂に調査委員として携わり、直虎についての研究成果をまとめた文章を掲載した。その後、いろいろな場で直虎について紹介してきたものの、地元浜松でも直虎の認知度は高くない。小和田氏は「直虎=男性」という新説に反論しながらも、論議が起こったことを歓迎している。

「面白い史料であることは間違いないので、論文や史料紹介の形で発表されたのち、多くの研究者によって議論が深まることを期待する。昨年は大河ドラマ『真田丸』のおかげで真田幸村に注目が集まり、新しい史料が見つかった。直虎も脚光を浴び、研究が進めば、人物像は肉付けされていくに違いない」(小和田氏)

 ドラマは第4回の終盤から、子役に代わって柴咲コウが登場する。予告編などで見る馬上の姿は凛々しい。「『ベルサイユのばら』のオスカルように、男装の麗人としてふるまい、時には男性と思わせることは可能だったのか?」と聞いてみると、「領内を巡る機会があるので、領民には真相を知られてしまうだろう。ただし、書状をやりとりするだけの他国の大名に対して男性としてふるまったことは大いに考えられる」(小和田氏)とのこと。

 “ベルばらのオスカル”と異なるのは、直虎が家臣を率いて領地を守り、激動の時代を生き抜いたことだ。婚約者だった井伊直親の遺児・直政の養母となり、井伊家の領主にふさわしい後継者へと育て上げる。直政は、のちに徳川家康の家臣として江戸幕府の樹立に貢献し、井伊家は初代直政から最後の当主直憲まで14代にわたって一度の国替えもなく彦根を治めた。“中継ぎ”としての直虎がいなければ、のちの井伊家の隆盛はなかったのである。

 小和田氏の力説を聞いて身近な女性とイメージが重なった。彼女は「中小企業の社長である父が亡くなって、後継者も未熟だったことから、一人娘の自分が経営者となって会社を立て直し……」という身の上だ。「現代に通じるテーマ。女性が活躍する社会だから、今の女性の心に響くだろう」と小和田氏。事業の継承という現代的な視点を加味すれば「直虎=おんな城主」という説が、より深く納得できる。(ライター・若林朋子)