すぐに進退を決めず時間をかけて考えたらどうかという周囲のすすめもあり、2008年秋から1年間、伊調は姉とともにカナダへ遊学に出かけた。英語を学びながらレスリングにも触れ続けたが、そこで知ったレスリングは日本と異なる姿をしていた。世界でトップクラスの選手でも、楽しんで続けることが基本だった。そして、選手はコーチから教えを受けるだけでなく対話と議論を重ねていた。

 帰国後、姉は青森県の教員採用試験を受験し高校教師になり、伊調は拠点を母校がある愛知県から東京へ移した。吉田沙保里をはじめとした世界トップクラスの女子選手と切磋琢磨する女子高・大学という環境から、ナショナルトレーニングセンターで男子の日本代表に混じって同じメニューの練習をする日々になった。レスリングの質を追求し、大会直前や優勝したあとであっても、結果より内容にこだわるようになったのはこの時期からだった。

 現代スポーツとしての女子レスリングは、1980年代半ばぐらいまでしか遡れない。まだ歴史が浅いため技術等の蓄積もこれからだ。「レスリングの世界は奥が深くて広くて、覚える新しいことがたくさん。楽しいです」と笑顔で語る伊調は、女子レスリング進化の歴史をつくろうとしているようだった。

 ところが、男子に混じって練習することはプラスの要素だけではなかった。ケガが絶えなくなったのだ。体が痛くても、動ける限り、組み合う練習を避けないためだった。2012年ロンドン五輪は足をケガし自力で歩くのが困難な状態のまま、試合に臨んでいた。それでも他を圧倒し、3つの目の五輪金メダルを勝ち取った。

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