医師、研究者、家庭の「三足のわらじ」で活動しながら、多数の論文誌に研究結果を発表している。2人の娘が巣立った今は、同じ医師で研究者の夫と京都で暮らす
医師、研究者、家庭の「三足のわらじ」で活動しながら、多数の論文誌に研究結果を発表している。2人の娘が巣立った今は、同じ医師で研究者の夫と京都で暮らす

 高橋政代さんは、iPS細胞を使った臨床研究で世界トップを走っている。

 人工多能性幹細胞(iPS細胞)から作った網膜の細胞「網膜色素上皮細胞」を網膜疾患の患者に移植する臨床研究を世界で初めて実施し、2017年にも2例目の移植を予定している。

 週刊朝日ムック『医学部合格「完全」バイブル2017』では、医師として研究に打ち込む高橋さんに、医学部進学から現在に至るまでのキャリアを振り返ってもらった。

■米研究所への留学で次々と新たな出合い

――高橋先生は、どうして医師を目指したのでしょうか?

 京都大医学部を受験したのは、親の勧めですね。高校生の頃は、特にこれがしたいというのがなかったので、親の勧めに従いました。大学はいいところへ行かないなら働きなさい、と言われていました。京大医学部は、行けるベストのところを目指したという感じですね。

――医学部を卒業後、眼科の医師になりました。

 眼科を選んだのは、医師の仕事と家庭を両立したかったからです。夜中にあまり呼ばれない科がいいかな、と思っていました。

 当時の医学部のシステムでは、医学部を卒業後は、すぐにそれぞれの科に進みます。そこで2年間研修医をして、4年間大学院で研究をして、2年間くらい留学をして、あとは臨床で手術をたくさんする。そうして「10年で一人前」と当時は言われていました。それに従って、そんなものかと思って研究も留学もやっていたんですね。

――その留学が、研究者としての転機になったんですね。

 1995年に、アメリカのソーク研究所に留学をしました。脳神経外科医の夫(京都大学の同級生で、京都大学iPS細胞研究所の高橋淳教授)の留学先と同じラボ(研究室)へ行ったんです。最初は、テクニシャン(研究補助)のように夫の研究を手伝おうと思っていたんですが、後で聞くと主人は私に手伝わせてはいけないと考えていたようで、すごく冷たかった(笑)。

 仕方がないから自分で研究をやり始めたら、すごく新しいことに出合ったんですね。それを生かして治療法をつくりたいと思ったところが転機でした。やりはじめると欲深いほうなので。

 留学先のラボは脳の基礎を研究していて、当時発見されたばかりの「神経幹細胞」という細胞を培養していました。全く新しい概念の細胞でした。眼科医として、治らない網膜の病気の患者をたくさん見ていましたので、神経幹細胞から網膜の神経細胞を作って移植をすれば、治療ができると考えたんですね。

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