このほかにも兄の追討令を受けての都落ち、弁慶の勧進帳、恩人藤原秀衡の死と後継者泰衡の裏切り、弁慶の立ち往生などの場面でも泣いたかもしれない。これは武門の棟梁としてはかなり異質のことである。

 古来、西洋ではニル・アドミラリといって、指導的地位にあるものはみだりに感情を表に出すべきではないとされるが、儒教文化圏に入る中国や日本でも同様だと思う(諸葛孔明が泣いて馬謖を斬る場面もあるが、これは素朴な感情の発露ではなさそうである)。

 泣くという行動は、相対する異性もしくは同性の血中テストステロンレベルの低下を介して、攻撃性を減退させる。しかし原因は分かっていない。涙の本来の意義は眼球を異物や感染から守ることで、感情の高まりによって涙を流すのは人類だけのようである。

 進化心理学者ハッソンは、泣くことは、自分と他の人間との結びつきをより強くする、すなわち自分が傷つき助けを求めていることを知らせるシグナルと推定している。同時に起きる目の充血と涙は、泣く人の眼差しを覆い隠し、本人の意図を隠匿(いんとく)し、他人の行動を抑止するように進化した。

 神経生物学者ソーベルは、悲しい映画を見せて集めた女性の涙を、由来を知らない男性に嗅がせると、生理的食塩水に比較して有意に血中のテストステロンレベルを下げるという実験結果を報告した。しかし、同時に被験者のfMRI(脳の活動を画像化したもの)を撮ると、辺縁系の活動を抑制し、攻撃性と同時に性的興奮をも下げるという結果になった。従って、別れ話に女性が泣いても大抵は良い結果にはならぬ。

 男の涙はさらに複雑で、社会の指導的立場にある人物が公衆の面前で涙を流すことは、同情心と同時に軽蔑と不信を招く可能性がある。実際、少し前に有名な政治家が国会で落涙したことを与野党に責められて代表選挙に敗れるという事件があった。

 義経の場合、「弓流し」(「源氏の大将がこんなに弱い弓を引いていたのかと笑われる」と思い込んだ)などの自意識過剰に加えて、凱旋時の勝手な任官授受、兄への甘えなど、人間的に未熟なところがある。つまり“お子様”だったわけで、「船弁慶」や「安宅(あたか)」など能の定番曲で、子方が義経を演じる演出的意図がわかってくる。

【出典】
1 Hasson O. Emotional Tears as Biological Signals. Evolutionary Psychology. 2009 Jul ; 7(3):363-370.
2 Gelstein, S., et al. Human Tears Contain a Chemosignal. Science. 2010 Jan ; 331(6014):226-30.
3 Frumin I, Sobel N. An assay for human chemosignals. Methods Mol Biol. 2013 ; 1068:373-94.

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早川智

早川智

早川智(はやかわ・さとし)/1958年生まれ。日本大学医学部病態病理学系微生物学分野教授。医師。日本大学医学部卒。87年同大学院医学研究科修了。米City of Hope研究所、国立感染症研究所エイズ研究センター客員研究員などを経て、2007年から現職。著書に戦国武将を診る(朝日新聞出版)など

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