しかし一昨年に結婚生活は破綻。その直後、彼女の「新恋人」の存在がメディアで話題となります。これが呼び水となって、一部の層から「中山美穂バッシング」の声が上がりました。

 離婚してしまったら、何を語っても周りに「邪推」されることは避けられません。バッシングを免れるには、しばらくは必要最低限のこと以外語らないのが賢明です(たとえば小泉今日子は、永瀬正敏と別れた際にそのように振る舞って、批判をかわしました)。にもかかわらず中山美穂は、「別れた理由」を必死で説明しています(「美st」2014年10月号など)。自分は「強制」に応えるべく努力してきた――その「苦労」が並々でなかったと感じているだけに、損得勘定を無視しても、「正しさ」を主張せずにいられないのでしょう。

 離婚をめぐる中山美穂の動きは、「アラフィフ」世代の生きづらさを象徴しているように映ります。これに対し小泉今日子は、「強制」にたじろがず、「自分の原点」から決して目を離しません。

<……結局、何者でもなかった“かつての弱い自分”のことが、大事だと思うんです。そこがなくなってしまうと、「やめて大事なものがなくなっちゃう」っていうタイプだから、ずっと普通なんでしょうね>(『MEKURU』ロングインタビューより)

 いっぽう山口智子は、「強制」されるのではなく、自分の意志で「ここではないどこか」に向かおうとします。

<私は『家』という宿命に縛られるのではなく、自分自身が後悔しない人生を選び取りたいと、いつしか心の奥で強く願うようになりました>

<もっと原初的な、血のルーツとしての「故郷」って何だろうと考えたときに、胸を張って生まれた場所の名を挙げられないむなしさがある。本当の魂の故郷はどこなのだろうと……でも今は、知らない世界を旅して、プライドを持って生きている人々に出会うことが、何より楽しい。遠い異国の地に無性に懐かしさを感じて、ときめきます。地球のいろんな風土に育まれた、色とりどりの文化の多様性って素晴らしい。美しい地球こそ、私の故郷です(笑)>(『FRaU』3月号 ロングインタビュー)

 アラフィフ世代を悩ませる「ここではないどこか」に向かえという「強制」。それに抗う2つのあり方を、小泉今日子と山口智子はそれぞれ体現しています。

 今後、「子どもも孫もいない人間の老い方」が切実な社会問題になると予想されています。(酒井順子の近刊『子の無い人生』<角川書店>は、この点を詳細に考察した好著です)。「強制に煩わされること」は、「アラフィフ」世代に特有の「他の年齢層からはわかりづらい悩み」かもしれません。「子なしで老いていく大変さ」は、それと違う「世代を超えた厄介ごと」です。小泉今日子と山口智子は、これからもそれぞれの方式で、魅力的に齢を重ねていくでしょう。それがどのような姿をとるのか。彼女たち2人に、ますます広い層から注目が集まるのは間違いなさそうです。