――今回の強制起訴により、東京電力の元幹部3人は、業務上過失致死罪にあたるかどうかが問わるわけですが、そもそも「業務上過失致死罪」とはどのような罪でしょうか。

 刑法211条は、「業務上必要な注意を怠り、よって人を死傷させた者は、5年以下の懲役もしくは禁錮または100万以下の罰金に処する」と定めています。しかしここで、みなさんにお伝えしたいことがあります。刑事責任を問うというのは、いたずらに処罰を求めればいいというものではありません。責任の所在を明確にして、何が正しく、何がまちがっていたかを明らかにすることが目的です。罪を犯した人を獄につなぐのは、あくまでも手段です。過失犯罪の根を断ち切り、後に起こり得る事故を防ぐために、それはなされるのです。

――古川さんは、ご著書『福島原発、裁かれないでいいのか』の中でも、「法育」「法を国民の手に」ということを仰っていますね。

 わたしは東京大学法学部卒業後、検事になり、法務省刑事局総務課長、内閣法制局参事官、司法研修所上席教官、京都地検検事正などを歴任してきました。甲府地検時代にはオウム真理教の強制捜査にも携わりました。法は国民のためにあるものです。ですから、わたしは法律には「社会の血」が流れていないといけないと思っています。法律は厳格に解釈o運用されなければならない。人を処罰することを定める法は、特にそうでなければなりません。ときに冷徹、非情のそしりを受けますが、何人にも厳正、公正に適用される必要があります。しかし、その解釈が「一般の常識」に沿わないものである場合、法律は血の通わない、冷徹、非情だけのものに成り下がるのです。

 福島原発事故が起こる以前から、住民によって民事上の原発運転差し止め請求などの訴訟が繰り返し起こされていましたが、裁判所は、ことごとく住民側を敗訴としてきました。国策であることを理由に原発の稼働を安全よりも優先させてよいとすることは、法理論としても認められません。憲法が国民に保障する基本的人権を侵すことになるからです。このたび、強制起訴となりましたが、わたしの古巣である検察には「被害者とともに泣く検察」という言葉をいま一度思い出してほしいのです。法秩序を維持し、社会の人々の安全を守ることは法治国家としては当たり前のことであり、これを使命とし、被害者の心情を深く理解すること。それを戒めたこの言葉を、今後も忘れないでいてほしいと思います。

――どうもありがとうございました。