まあ、その時代には、妖怪はかなり減っていたようには思いますけど。ランプとか行灯の光の背後にはがいたけれど、蛍光灯なんて強い光に照らされると妖怪は消えちゃうから。水木サンは子どもの頃に、行灯で育った「のんのんばあ」(仏を拝む婆さんという意味だという)から妖怪やあの世の話をたくさん聞いていたから、妖怪の感度があるんですねえ(笑)。戦争で奇跡的に助かったのも、見えない力のおかげだと思ってます。精神的には妖怪が身近にいた時代のほうが幸せだったと思うね。

――「週刊少年マガジン」で鬼太郎の連載を開始したのは昭和40(65)年8月、水木さんが43歳のときである。同43(68)年にはテレビ化され、明るくとぼけた妖怪たちが活躍する「ゲゲゲの鬼太郎」は押しも押されもせぬ人気を獲得。紙芝居や貸本時代に創作した他のキャラクターも生かして、同45(70)年には連載が11誌を数えた。同41(66)年に作った水木プロダクションには、つげ義春、池上遼一らがアシスタント陣に名を連ねた。

■好きなことやらずにブーブー言うな

 水木サンは、妖怪をおもしろく見せることを発見したわけですよ。本当に恐ろしい絵を描いたら売れない。水木サンの演出が、うまいから、みんな「だまされた」わけですねえ(笑)。

 といっても、漫画でメシを食えるようになったのは、40歳を過ぎてからです。それまでは、どんなに努力しても金銭的に報われなかった。絵を描くことが好きだったし、漫画の筋を考えるために、食い物を削ってでも惜しみなく資料を買ってましたよ。でも、不満はなかったね。だって、大好きなことをやれるだけで幸せだったから。本当にメシを食えなかったら困るけど、成功は二の次だったのです。

 いま、格差社会がどうのこうのと言いますが、たいして努力もしないで幸せになろうなんて考え方をしているのなら間違っているんじゃないですか。相当に努力をしないとなかなかカネを獲得できないし、幸せにもなれないわけだけど、いきなり幸せになりたいと叫ぶのが、いまどきの若い人の考え方と違いますか?

 意に満たない仕事をしたりとか、嫌いなことをしてブーブー言う人がいると、わたしゃ、なんか腹が立つね。なんで自分が好きなことに邁進しないんだって、そう思うわけですよ。不利な状況だったとしても、周りに反対されても、自分の好きな道を歩むんです。それが見つからないという人は、ベビーの頃を思い出してください。あなたの好奇心をくすぐる何かがあったはずですよ。

 水木サンは、周りがどう言おうと気にしないで好きなことに邁進したからこそ、結局、まあ、ある程度成功したってわけですよ。一生懸命邁進すれば、メシは食えます。
 てなことも、昭和からの遺言になるんじゃないですか? へへへ。

取材・構成 邨野継雄、週刊朝日編集部

(週刊朝日2009年2月13日号から再掲載しました)