終戦になったとき、そのみんなが死んでいたから妙な気持ちだったですよ。もう少し戦争が続けば、私もだめだった。

 昭和といえば、なんてったって「戦争」なんだね。

――ラバウルで終戦を迎えた水木さんは、復員する昭和21(46)年まで、原住民のトライ族の人々との交流を楽しんだ。兵舎にいるよりも彼らと一緒のほうが心が休まったという水木さんは、彼らのシンプルな生活に共惑を覚えたのだった。

 左腕をなくして野戦病院に移ったんですが、食糧を探してジャングルを歩き回っていたときに、偶然、集落を見つけたんですね。絵を描いてあげたり歌を教えたりしているうちに、すっかり気に入られて、配給のたばこなんかと交換しなくても、いろんな食べ物をくれるようになった。で、戦争が終わったら、連中はここに住めばいいって言うわけです。彼らの人柄もいいし、気候もいいし、現地除隊して真剣に住み着こうと考えたんです。だけど、親しくしていた軍医に相談したら、「いったん内地に帰って両親に会ってからにしたらどうだ」と諭されて、それで日本に帰ったんですよ。

――復員した日本は占領下。海外への再渡航はかなうはずもなく、水木さんは東京で、闇米の買い出しや魚屋、輪タク業(自転車の後ろに人を乗せるタクシー)などの職業を転々。かたわら武蔵野美術学校(現武蔵野美術大学)に入学して、本格的に絵を学ぼうとするが、中退。流れ着いた神戸でアパート経営に乗り出したとき、入居者のひとりに紙芝居描きがいた。

 私は東京美術学校(現東京芸術大学)を出て絵描きになるのが夢だったけど、食うのに追われた時代に油絵で生活するのは無理だった。だから、紙芝居という商売を知ったときは、これだと思って、その男に版元を紹介してもらって描き始めたんです。ところが、やってみると毎日描いても、ちっとももうからない。私の原稿料が安いうえ、版元がひどい貧乏で支払いが滞るんだね。アパート経営も立ち行かなくなって売っ払い、いよいよせっぱ詰まったときですよ、“鬼太郎”を描いたのは――。

――以前、大当たりした紙芝居に、墓場で産み落とした赤ん坊に、死んだ母親が幽霊となってアメを届けるという話があったという。版元からその話を聞かされて、それをヒントに生まれたのが水木さん“鬼太郎”だった。

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