でもね、かわいそうなのは死んだ兵隊ですよ。善良な若者がポコポコ死ぬ。10人の小隊で海岸線の見張りをさせられたとき、私ひとりを残してみんな死んだ。ちょうど私が歩哨に立った朝です。向こうには極彩色のきれいなオウムがたくさんいて、日の出とともに一斉に山から飛び出して遊ぶんですよ。見張り用の望遠鏡でオウムをうっとり眺めていたら、兵舎のほうでパラパラパラって銃声がして。敵は夜のうちに兵舎を包囲して、日の出を待って山側から急襲したんですね。私はオウムに気をとられて、みんなを起こすのがちょっと遅れた。それが駄目で……。

■私が描いた似顔絵が彼らの最後の肖像に

 水木サンも追いかけられたけど、死に物狂いで逃げました。珊瑚でできた岩場を走って、海を泳いで、密林を抜けて。朦朧として途中で所属する中隊に戻る道もわからなくなったけど、とにかく死にたくなかった。5日間ほど逃げていたら、日本兵のいる小屋に偶然たどり着いたんです。そこで道順を教わって、ようやく原隊に戻れた。ところが、私を待っていたのは、「なんで生きて帰ってきた。おまえも死ね」っていう中隊長の言葉でした――。

――初年兵教育で見舞われたビンタの嵐、九死に一生を得た兵に向けられる「死ね」という罵声。水木さんの「昭和っていうと、大変っていう感じ」という言葉には実惑がこもる。原隊復帰した水木さんは、今度はマラリアに罹患した。

 山中で戦闘があって、戻る途中の豪雨でずぶぬれになったんですよ。そしたら翌日から40度以上の高熱が出て、寝込んだわけですけど、ようやく回復しかけたとき、敵機の爆撃があって、近くに落ちた爆弾で左腕をやられて。傷口が腐ってくるから切断せざるをえなかった。

 それで私は片腕を失ったわけだけど、でも、それで国を恨むつてのはない。まあ、必然的にそうなったんだろうって程度で――。

 だって、水木サンの中隊は200人くらいいたけど、5、6人を残してみんなやられちゃった。私は腕をなくしたけど、戦友は全部死んだんです。腕1本と命一つの差は大きいですよ。生きてたほうがいい。

 21歳や22歳で死ぬんですよ。まじめで純朴な好青年ばかりが死ぬんです。非常にかわいそうだと、今でも思っているんです。「かわいそう」って言葉は以後、死んだ兵隊にしか私は使っていません。

 中隊長も自分はどうせ死ぬと思ってたんですね。呼ばれて似顔絵を描かされたことがあった。顔を残しとけってわけですよ。ベビーの頃から絵には自信があったから、頼まれて軍事郵便のはがきにやたらと似顔絵を描いてました。

次のページ