小泉今日子は、「かけがえのないものが失われること」に人一倍敏感です。「嘘のように豊かだった時代」への訣別ソング『あなたに会えてよかった』を、みずから作詞して歌ったのが1991年。多くの人がまだバブルに浮かれていたころでした(助川幸逸郎「『あなたに会えてよかった』の『あなた』は誰か」dot.<ドット> 朝日新聞出版 参照)。

 読売新聞の書評でも、彼女は「何かが失われる話」を好んで取り上げます。2015年8月9日の朝刊に寄稿した「上半期の三冊」でとりあげたのも、「別れ」にかかわるものばかりでした。

<何故だか三冊とも別れをテーマにした本だった。私もそろそろ五十歳。最後のお別れをする機会も少なくない。生きている私はサヨナラを言った人たちのことを時々思い出す。求められれば思い出を語る。そうれば私が死ぬまでその人たちは私の中で一緒に生きているような気がして頼もしい気持ちになれる。そして私はゆっくりとゆっくりと何度も何度もその人たちにサヨナラを言いながら自分が生きていることを確認しているようにも思う>

 こういう感性を持つ小泉今日子に、「失われたもの」を担う春子が託された――結果がすばらしいのは当然です。そして、小泉今日子が「喪失」を表現したことで、『あまちゃん』の「再生のドラマ」に奥行きが与えられたことも間違いありません。

 現実世界においてはほとんどの場合、「失われたもの」をそのまま取りかえすことはできません。「もう取り戻せないもの」と正面から向きあうこと。そこから出発して新たな目標を設定しないかぎり、「再生」はかなわないのが基本です。『プロジェクトX』に感動して高度成長をリピートしようとしても、何かが得られる見込みは低いのです。

「喪失」を前提に成しとげられた、春子の「再生」はリアルです。これが描かれるかどうかで、春子以外の人物の「再生」の説得力も違ってきます。春子のような「喪失するキャラクター」を、小泉今日子という「喪失に敏感な女優」が共感をもって演じた――このことが、『あまちゃん』の成功に貢献していることは確実です。

 この連載では、小泉今日子の「変化する力」について何度か触れました。「失われて取り返せないもの」を、彼女はするどく感じとります。だからこそ、「輝かしかった過去」をそのままくり返すことに執着しません。いくら望んでも過去を取り戻せない場合のあることを、彼女は身に染みて知っているのです。こう考えると、小泉今日子の「変化する力」は、「喪失」に対する感受性と深くつながっていることがわかります。

 それにしても小泉今日子は、なぜかくも「喪失」に敏感なのでしょうか。そこには個人的な資質に加え、1980年代という「喪失の予感」の季節に青春を送ったことがおそらく関連しています。

 彼女が『あまちゃん』で果たした役割は、バブル時代を生きた人間だからこそやれる仕事でした。当時の経歴を生かして視聴者の興味をひき、自分たちの世代に固有の感覚を演技に活かす――中年世代が「現在」にいかにかかわるべきかの「模範解答」を、『あまちゃん』の小泉今日子は示してくれたと私は思います。

※助川幸逸郎氏の連載「小泉今日子になる方法」をまとめた『小泉今日子はなぜいつも旬なのか』(朝日新書)が発売されました

注1 中川大地「全156エピソード完全レビュー」(宇野常寛編『あまちゃんメモリーズ』文藝春秋 2013)
注2 原田曜平「ヤンキー経済」(幻冬舎新書 2014)
※『あまちゃん』のセリフの引用は、『「あまちゃん」完全シナリオ集』 第1部・第2部(角川マガジンズ 2013)による。ただし、映像と照合して一部表記をあらためた箇所がある

助川 幸逸郎(すけがわ・こういちろう)
1967年生まれ。著述家・日本文学研究者。横浜市立大学・東海大学などで非常勤講師。文学、映画、ファッションといった多様なコンテンツを、斬新な切り口で相互に関わらせ、前例のないタイプの著述・講演活動を展開している。主な著書に『文学理論の冒険』(東海大学出版会)、『光源氏になってはいけない』『謎の村上春樹』(以上、プレジデント社)など