エッセイストの山崎まどかに、『女子とニューヨーク』(メディア総合研究所)という著作があります。そのなかで、SATCのヒロイン・キャリー=ブラッドショーが論じられています。山崎によれば、キャリーは<地方からNYに出てきて、「特別な誰か」になろうとした女性>の代表なのだとか。

 だとすれば、『あまちゃん』の春子は、「挫折した和製キャリー」ということになります(上京してアイドル歌手になろうとして夢破れ、故郷にもどったわけですから)。「消費文化」の時代の象徴がキャリーとするなら、そうした時代の終焉を、身をもって語る存在が春子です。

 そして、『最後から二番目の恋』の千明は「恋や結婚をあきらめかけた中年のキャリアウーマン」。中井貴一演じる長倉和平と、「恋人」というより「人生の道づれ」としてかかわります。彼女も、「恋愛」から「消費のユニット」という意味が失われた「今」を体現するキャラクターです。

「消費文化」の時代にどこまでも同調していた女優が、春子や千明を演じていたらどうなったでしょうか。役の「挫折」や「転向」が役者自身のそれとかさなって、視聴者はいたたまれない気持ちにさせられた気がします。

 かといって、「消費文化」に距離を置いているだけで、春子や千明をたくみに演じられたとも思えません。小泉今日子が命を吹きこんだ春子や千明には、何ともいえないユーモラスな味がありました。並みの「『消費文化』に距離を置いていた女優」には、あの雰囲気は出せなかったのではないでしょうか。小泉今日子は、「自己表現」ではなく、「自分でない誰か」になることをめざして演技します(助川幸逸郎「変幻自在だった「小泉今日子のアイドル時代」dot<ドット> 朝日新聞出版 参照)。自分とギャップのある役を演じて「水を得た魚」になれるタイプです。そういう彼女が演じたから、春子や千明は「愛される人物」になったのです。

「消費文化」が終わった「現在」に、小泉今日子ほど絶妙のスタンスでかかわれる女優は稀にしかいません。2010年代に小泉今日子が「再浮上」した最大の理由はそこにある。それが私の実感です。

 先日、小泉今日子が主演する舞台『草枕』を観てきました。さいきん彼女は、映画やドラマでは落ちついた姿を見せることが多くなっています。ところが舞台では、アイドルのころそのままの「お茶目なかわいらしさ」を全開にしていました。ポーズや表情をいつでも即座に決められる「瞬発力」も健在。さすが「CM女王」と何度もうならされました。

 現在の小泉今日子は、「ポスト『消費文化」の時代』にぴったり寄りそっている印象があります。けれども、そこに回収されない「引き出し」をたくさん確保していることが、舞台に接すると伝わってきます。小泉今日子が、その独自のバランス感覚を発揮して、これからどちらにむかうのか。彼女のファンならずとも、注視しつづける必要がありそうです。

※助川幸逸郎氏の連載「小泉今日子になる方法」をまとめた『小泉今日子はなぜいつも旬なのか』(朝日新書)が発売されました

注1 「目指すは中年の星! 小泉今日子ロングインタビュー」(「アエラ」2008年9月22日号)
注2 注1におなじ
注3 小泉今日子『戦う女 パンツ編』(引用は http://www.littlemore.co.jp/tatakauonna/ による)
注4 「阿川佐和子のあの人に会いたい 小泉今日子」(「週刊文春 2001年1月25日号」文藝春秋)

助川 幸逸郎(すけがわ・こういちろう)
1967年生まれ。著述家・日本文学研究者。横浜市立大学・東海大学などで非常勤講師。文学、映画、ファッションといった多様なコンテンツを、斬新な切り口で相互に関わらせ、前例のないタイプの著述・講演活動を展開している。主な著書に『文学理論の冒険』(東海大学出版会)、『光源氏になってはいけない』『謎の村上春樹』(以上、プレジデント社)など