氷川丸の旗には秘話が…
氷川丸の旗には秘話が…
女優のミムラさん(左)と氷川丸の金谷船長
女優のミムラさん(左)と氷川丸の金谷船長

 オシャレな港町・横浜。そのシンボルのひとつでもあるのが、山下公園に係留された「氷川丸」だ。現在は博物館として親しまれている氷川丸が、かつてはその「シンボル」を失っていたことを、ご存じだろうか。

 BS朝日「ミムラが行くニッポンこころの原風景 空から見た絶景遺産 新宿・浅草・横浜 戦後復興の軌跡を訪ねて」(7月12日・日曜日 21:00~22:54)では、そんな横浜の戦後史を、無線操縦ヘリを使って空から読み解いていく。

 1930年に建造された氷川丸は、1960年に貨客船を引退した。現在は山下公園に係留されている。氷川丸を訪ねた女優のミムラさんは「わー、壮観ですね」と思わず歓声をあげた。しかし、その全容は地上からではとらえきれない。そこで活躍するのが無線操縦ヘリ。はるか上空、「鳥の目」から氷川丸の全貌を見つめると、改めてそのスケールの大きさを知ることができる。全長63メートル、重さは1万トン以上。地上部分に4層、水面下に3層。高さは7階建てのビルに相当する。

 船内はモダンなつくりで、食堂室などの船内の各部屋にはアールデコの様式が用いられている。なかでも豪華な部屋が、一等特別室だ。金谷範夫船長に客室内を案内してもらった。

 壁には美しい模様が彫り込まれており、ベッドカバーも壁紙に合わせてあったりと、細部に至るまでこだわりが見える。さらに、ベッドの上には屏風のようにきれいに形作られた毛布が置かれている。レストランで見られる、「飾りナプキン」のような、見事な造形だ。

「これは『飾り毛布』と言うんです。なぜこれをするかというと、氷川丸の航路には島も何もなくて、景色が楽しめないんです。なので一等室のお客さまには、せめてこういったことで少しでも楽しんでもらえるように、と」(金谷船長)

 豪華な客室と細やかなもてなしで多くの乗客を楽しませてきた氷川丸。しかし太平洋戦争が始まると、その役割は一変する。貨客船だった氷川丸は、病院船として海軍に徴用されることとなったのだ。船内の通路を歩きながら、金谷さんは次のように話す。

「当時はこういうところ(通路)には畳が敷かれていたんですね。そのぐらいしないと、人がのれなかった。この船は出港時286名の乗員で出ていったと言われているんですが、そこから多い時は2000人くらいを乗せてきたんだそうです。さらに戦後は引き揚げ船として使われていました」(金谷船長)

 氷川丸は病院船として、戦時中は約3万人にもの傷病兵を運んだとされている。貨客船だった時代は30年間で2万5千人ほどを乗せたというから、戦中、どれだけ多くの傷病者が氷川丸に救われたかが分かる。さらに戦後の引き揚げ船としての活躍も含めると、氷川丸は戦中・戦後で6万人もの人を救ったことになるという。

 そんな氷川丸のシンボルとも言えるものが、かつて船上から姿を消したことがあった。再び「鳥の目」で氷川丸を見つめると、船上に高々と掲げられた4枚の旗を見つけることができる。これは「コールサイン」と呼ばれる国際信号旗だ。横浜が進駐軍に占領されていた時代。この4枚の旗と、日章旗の掲揚は認められていなかったのだ。

 それぞれ模様の違う4枚の旗は、上から「J・G・X・C」=氷川丸を意味する。自らの名を掲げることができなかった氷川丸が、再びその名前を取り戻したのは1953年。進駐軍による横浜の占領が終わった翌年のことだ。この年から氷川丸はシアトル行きの航路に復帰。再び貨客船として多くの乗客を乗せることができるようになった。

「これに旗が戻ってきたことで、ほっとした人もいたでしょうね」とミムラさん。それに金谷船長は「お客さんを乗せられるようになって、恐らく氷川丸が一番うれしかったと思いますよ」と、笑顔で返した。

 悲しい時代を乗り越えて、再び掲げることができるようになった氷川丸の旗。これを知ると、また違った思いで見つめることができそうだ。

 このほか、番組では浅草・浅草寺のふたつの本堂に隠された秘密、新宿の東西のかつての意外な姿などを、空の風景から読み解いていく。戦中・戦後を経て激変した東京の街並みを、ぜひ「鳥の目」で楽しんでみてはいかがだろうか。