冒頭部でも触れたが、空母を主力とする太平洋戦争開戦の火ぶたを切った真珠湾攻撃時、まだ就役すらしてなかった。その空母を4隻失ったミッドウェー海戦では、その500kmも後方を航行しており、米軍と戦っていない。1944年にはレイテ沖海戦に主力艦として参加したが、この作戦の指揮を執る第2艦隊司令長官・栗田健男中将による有名な「反転」命令により、激戦地に赴くことなく引き返している。

 だが、そんな大和に転機が訪れる。すでに敗戦色が日々濃くなる1945年4月、連合艦隊司令部では「一億総特攻の魁」として太平洋戦争における海軍の象徴的軍艦、大和を当てることにした。燃料は片道分、目的地は沖縄。もし沖縄まで辿り着いたならば浅瀬に突っ込み陸上砲台として米軍を迎え撃つ――。

 今の時代からみれば無謀ともいえる特攻艦隊の旗艦として大和が沖縄に向けて1945(昭和20)年4月6日出撃した。

 だが沖縄に向かう途中の翌7日、鹿児島県坊ノ岬沖で待ち受けていた1000機以上の米軍航空隊の攻撃により14時23分に沈没してしまう。戦闘記録によると魚雷9発を受けた、とある。

 艦からの攻撃ではなく飛行機からの攻撃で沈んだこと、それはもう戦闘の主力は戦艦ではなく航空機の時代であることを示すものだった。

 今、大和が沈んだとされる鹿児島県犬田布岬には「戦艦大和慰霊塔」が置かれている。ここで今日、鹿児島県伊仙町の主管による慰霊祭が行われる。沈没した14時23分の黙祷の後には、大和が属した旧海軍の伝統を継承する海上自衛隊のP-3C 対潜哨戒機が慰霊のために飛行する予定だ。そして9月には、神道政治連盟大阪本部が大和が沈んだ洋上で慰霊祭が行われる計画もある。

 戦後70年の節目を迎えた日本の今を、鹿児島県沖で沈んだ大和乗員たちの目にはどう映っているのか。決して返ってくることのないこの問いに向き合うことが今私たちに求められているのではないだろうか。

(フリーランス・ライター 秋山謙一郎)