米軍機の攻撃を受ける戦艦大和
米軍機の攻撃を受ける戦艦大和
戦艦大和の慰霊のために飛行するP-3C 対潜哨戒機(海上自衛隊のホームページより)
戦艦大和の慰霊のために飛行するP-3C 対潜哨戒機(海上自衛隊のホームページより)

 旧日本海軍の戦艦大和が沈んで、きょう4月7日で70年になる。いつの時代も軍事とは科学技術の粋だ。当時の日本が誇る最高水準の知恵と技の結晶――。大和とはそんな艦だった。

 基準排水量6万4千トン、全長263.0m、幅38.9m、吃水10.4mと伝えられる巨艦大和。これは“QE2”で知られる20世紀後半を代表する英国の豪華客船「クイーン・エリザベス2」とほぼ同じだ。現在、海上自衛隊が保有する護衛艦のなかでももっとも大きな艦と話題となった空母型護衛艦「いずも」ですら約2万トンだ。大和がいかに大きな艦だったかがここからもうかがえる。

 太平洋戦争開戦直後の1941年12月16日に就役後、連合艦隊旗艦となった大和だが、その力を発揮する機会にはあまり恵まれなかった。世界でも最高水準に達する強さを持つ大和を「切り札」として温存したい。当時の海軍ではそう考えていたという。

 浮かんでいるだけで意味がある。いわば“政治的な兵器”、それが大和という艦だった。

 だが、いつも戦場に出ることなく当時の連合艦隊泊地だった山口県柱島や、グアム島やパプアニューギニア近く、今のミクロネシア連邦・チューク諸島に置かれていた最前線基地・トラック島に停泊していた大和は、いつしか最前線の将兵たちから「大和ホテル」という軍艦としてはありがたくないあだ名を頂戴していた。

 連合艦隊司令長官以下、若い水兵に至るまで大和乗員たちは、最新の艦ゆえの特権で冷暖房完備、もう本土ではとてもお目にかかれない恵まれた食事に日々ありつけたためだ。

 もっとももうこの頃には大和や姉妹艦である「武蔵」といった大型艦を自由に動かすには重油の貯蔵具合を気にしなければならないほど、戦局が逼迫していたという事情も大きい。

 「虎の子」という作戦上の意図、その巨体ゆえ油を食うという経済的な理由、この2つから大和は太平洋戦争時、ほとんど前線に出ることはなかった。

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