そこで浮上したのが、「信濃」を空母に改造する計画だった。一説には、大和型戦艦の象徴である、主砲の「46センチ砲」を、呉から横須賀に運搬する専用輸送船が米潜水艦に沈められてしまったため、もはや戦艦としての建造は困難になってしまったとも言われている。

 こうして「信濃」は航空母艦に生まれ変わることになった。だが、戦争が激しさを増すに従って、軍艦の修理が増えてしまい、人手不足で信濃の工事はなかなか思うように進まなかった。その一方で、海軍首脳部から「1944年10月までに工事を完成させよ」との命令が下る。当初の予定よりも半年近く前倒しされた形だった。このため、工事には門外漢の女性なども動員された。

 44年10月には進水式が行われ、正式に「信濃」と命名され、横須賀での工事は完了した。全長266メートル、基準排水量6万2000トン―当時、世界最大の空母が誕生した。信濃は、1961年に米海軍の「キティホーク」が登場するまで、世界一だった。皮肉なことに、「信濃」が完成した時、日本には搭載できる航空機が残っていなかったとも言われている。

 44年11月28日、「信濃」は残りの工事を行うために、呉に向けて横須賀を出港した。この時、搭載していた飛行機は特攻兵器「桜花」だけだったと言われている。

 だが、当時、日本近海の制海権は米軍の手に渡っていた。「信濃」は、外洋に出てすぐに米潜水艦「アーチャーフィッシュ」に捕捉されてしまう。

 そして翌29日には「アーチャーフィッシュ」の魚雷攻撃を受けて、和歌山県の潮岬沖で沈んでしまった。これが「信濃」の最初で最後の航海だった。

 沈没の際、「信濃」に積まれた特攻兵器「桜花」が大量に海面に浮かんだことで、乗組員の生存に役立ったという。

 「信濃」の沈没は、護衛していた駆逐艦など数隻に記録されており、その地点は詳細に残されている。だが、沈没現場は南海トラフと呼ばれる6000~7000メートル級の深海のため、今日に至るまでその船体は発見されていない。

 「武蔵」を発見したポール・アレン氏は今後も沈没船の調査に投資するとみられており、深海に眠る「信濃」を呼び覚ます日は来るのだろうか。彼は、その存在をきっと知っているに違いないだろう。

(ライター・河嶌太郎)