「15時30分、艦隊は反転す。本反転において麾下の片腕たる武蔵の傍らを過ぐ。損傷の姿いたましき限りなり。すべての注水可能部は満水し終わり、左舷に傾斜十度くらい、御紋章は表しいるも艦首突っ込み、砲塔前の上甲板最低線漸く水上にあり」(「戦藻録」【著・宇垣纏、原書房刊】)

 「注水」とは魚雷で損傷を受けて浸水した場合、艦のバランスを保つため、魚雷を受けた反対側にわざと海水を入れることだ。つまり、武蔵は、注水が可能な場所にはすべて水を入れて、なんとかバランスを保っていた。「御紋章」とは、日本の軍艦の艦首に取り付けられていた「菊の御紋章」を意味する。宇垣中将の記述は、艦首から砲塔がある前の部分が海水に沈みかけていたという意味だ。事実、武蔵は艦首から滑るように沈んでいった。

 満身創痍…まるで、源義経を守るため、自ら盾となり、多数の矢を受けて、壮絶な死を遂げた武蔵坊弁慶のようだ。武蔵の防御力に驚愕した米軍は、のちに沖縄沖で大和を攻撃した時には、魚雷攻撃を左舷に集中させ、撃沈している。大和の最期も壮絶なものだった。

大和と武蔵、共に猛攻撃を受けて沈んだが、特に、武蔵のそれは世界の海戦史上で類がないものだった。今後の調査で沈没した武蔵の全容が明らかになることを期待したい。

(dot.編集部・金子哲士/ライター・河嶌太郎)