見た目も違う。一見すると、外観はほとんど同じだが、微妙な違いがある。軍艦の艦橋部分には、甲板と結ぶ「ラッタル」と呼ばれるハシゴが備え付けられている。艦長は艦橋で指揮をとり、各部署に命令を出す。ラッタルは各部署との連絡に重要な役割を果たしていた。ハシゴの踊り場の数が、武蔵より大和のほうが多かったと言われている。また、大和は艦橋最上部にある防空指揮所までハシゴが通じていたとされる。武蔵にはこれがなかった。

 一方、装備された兵器はどうだったのか。主砲や副砲の数に違いはないが、攻撃をかける敵機を迎撃する機銃の数は、武蔵のほうが多かったといわれている。一説には敵機の攻撃から艦を守るために、機銃を増強したとされる。

 両艦が最後に同時に出撃したのは同じレイテ沖海戦だが、大和には、敵機の攻撃を防ぐ目的で、12基の「12.7cm連装高角砲」という対空砲が増設されたのに対し、武蔵には、この対空砲の増産が間に合わず装備できなかった。このため、本来は対空砲を置く予定だったスペースに、機銃を設置した。その結果、武蔵の機銃のほうが多くなったとも言われている。

●武蔵のほうが”旗艦”を長く務めた

 違いはほかにもある。太平洋戦争での連合艦隊の旗艦といえば、大和というイメージが強い。大和は42年2月から約1年間、旗艦だった。武蔵がその後を引き継いでいる。その理由は、司令部施設の機能が武蔵のほうが上だったからだ。武蔵は、44年5月まで1年2カ月あまり旗艦を務めた。つまり、武蔵は、太平洋戦争中の連合艦隊で、最も長く旗艦だったのだ。

 また、武蔵は“世界一被弾した軍艦”と言われている。被弾数には諸説あるが、米軍の記録によると、武蔵は、レイテ沖海戦で爆弾44発、ロケット弾9発、魚雷25本が命中したという。だが、これだけの猛攻撃を受けても、武蔵は約5時間も沈まなかった。

 沈まなかった理由は、魚雷攻撃を左舷と右舷にバランスよく受けたためとも言われている。だが、それだけではないだろう。武蔵の防御力や浸水に対する設計が優れていた証拠でもある。

 武蔵の壮絶な最期を大和の艦上から目撃した宇垣纏中将は、この時の様子をこう書き残している。

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