どうすれば小泉今日子のように、齢とともに魅力を増していけるのか―― その秘密を知ることは、現代を生きる私たちにとって大きな意味があるはず。

 日本文学研究者である助川幸逸郎氏が、現代社会における“小泉今日子”の存在を分析し、今の時代を生きる我々がいかにして“小泉今日子”的に生きるべきかを考察する。

「『文学系アイドル』がいた時代とは」よりつづく

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「文学系アイドル」は、教養や文才を誇示することで、「芸能人としてのスペック」に収まらない「私」をアピールします。松田聖子や中森明菜も、仕事を離れた「私」の姿でファンを引きつけました。

 アイドル時代の小泉今日子は対照的です。歌詞を書いて「自己表現」することには及び腰、教養自慢もせず、恋愛騒ぎも仕事に反映させない――芸能活動を離れた「私」が表に出ることを、避けていたようにも映ります。
 
 先に触れた「月刊カドカワ」1990年10月号の小泉今日子特集に、精神科医の香山リカは書いています。

<記号で表現される――つまり、メディアを通して私たちの目に触れる――キョンキョンは、偉大な精神分析家といわれるJ・ラカンの説を待つまでもなく、“記号内容の上を絶えず横すべりしている”。

 キョンキョンの歌、CM、衣装、スキャンダル。

 それらは凝視されればされるほど別の記号にするっと逃げ込もうとするばかりで、その記号が意味しようとするキョンキョンを読み取ることなんてできた試しはない。

(中略)ウルトラマリンの深い淵に沈むキョンキョンの真実は、あくまで縁からそっとのぞくことしか許してくれないみたい>(注1)

 小泉今日子が、きわだって「『私』を見せないタイプ」と思われていたことがわかります。
最初は◯◯することは恥ずかしかったけど、やっていくうちにそうではなくなった――彼女のインタビューを見ると、この種の言いまわしがたびたび現れます。

<この年(1985年)のツアー「Kyon2 panic85」が始まるまで、ステージに立ちたくないとか家に帰りたいって思ったりしてたんだけど、これからそういうことがなくなった気がする>(注2)

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