強くなった円のおかげで、ありふれた一般人も、ロンドンやパリに行けるようになりました。外国車や高価な洋酒も、街に溢れはじめます。セレブにだけ許されていたもろもろが、庶民の生活に入りこんできました。

 その結果、とんでもない勘違いが広まります。特権階級だけに許されたことをやっている自分は、並みの人間でないはずだ――そんな「過大な自己重要感」を抱える「普通の日本人」が急増したのです。

 勘違いに陥った人々は、こう考えました。「実際に芸能人になるより、芸能人並みにちやほやされる素人でいたい。芸を見せたり、肉体を人前にさらしたりして注目されるのは、たんなる『等価交換』だ。これといったことをせずに特別なポジションを占めてこそ、自分の『生まれつきの重要性』が証明される」

『アッコちゃんの時代』の北村厚子は、こうした「勘違いをした一般人」の代表です。そして、「過大な自己重要感」にとらわれていたのは、「素人」だけではありません。

「歌や演技をするだけの『ただの芸能人』と見られたくない。特別な知性や感性の持ち主だと認められたい」

 80年代には、そんな風に望むアイドルが一部にいました。「生まれつきの重要性」を証明したい欲求は、「素人」とはまた別のかたちで芸能人にも取りついていたのです。

 難解な哲学書を読んでいることを吹聴した挙句、中身をわかっていないことがばれて失笑された。あるいは、芸術家と結婚してパリに移り住み、ほどなく離婚して行き場を失った――バブル世代のアイドルたちは、インテリジェンスやアートな感性を誇ろうとして、いくつも失敗談を残しています。

小泉今日子は、バブル時代に青春を過ごし、その間芸能界というギラギラした世界に身を置いていた。それでいて『自分は特別』という意識に縛られなかったのはなぜなのか?」

『小泉今日子の「謎」はどこにあるのか』(dot.<ドット>朝日新聞出版)で、そんな風に私は問いました。それに対する答えを、今回は探っていきます。

 結論を先にいえば、小泉今日子がつまずかなかったのは、本物の「プロ」だったからです。80年代、過大な自己重要感にとらわれて、「素人」も芸能人も多くが「勘違い」に陥っていました。そうした人々と真正の「プロ」の、いちばんの違いはどこだったのでしょうか?

もしも「なんてったってアイドル」を松田聖子が歌っていたら(中)につづく

※助川幸逸郎氏の連載「小泉今日子になる方法」をまとめた『小泉今日子はなぜいつも旬なのか』(朝日新書)が発売されました

助川 幸逸郎(すけがわ・こういちろう)
1967年生まれ。著述家・日本文学研究者。横浜市立大学・東海大学などで非常勤講師。文学、映画、ファッションといった多様なコンテンツを、斬新な切り口で相互に関わらせ、前例のないタイプの著述・講演活動を展開している。主な著書に『文学理論の冒険』(東海大学出版会)、『光源氏になってはいけない』『謎の村上春樹』(以上、プレジデント社)など