どうすれば小泉今日子のように、齢とともに魅力を増していけるのか―― その秘密を知ることは、現代を生きる私たちにとって大きな意味があるはず。

 日本文学研究者である助川幸逸郎氏が、現代社会における“小泉今日子”の存在を分析し、今の時代を生きる我々がいかにして“小泉今日子”的に生きるべきかを考察する。

小泉今日子とオリーブ少女と森ガール(中)よりつづく

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 1987年、小泉今日子は「Phabtasien」というアルバムをリリースしています。その冒頭の一曲「連れてってファンタジェン」のプロモーション・ヴィデオで、小泉今日子は「お姫さま」のような衣装を纏い、森の風景をバックに歌っています。

 このPVの小泉今日子は、私の見るところ、あまり魅力的ではありません。

「森のなかのお姫さま」は、悪い魔法使いに見つかるにせよ、王子さまに連れ出されるにせよ、まもなくこのままでいられなくなるのが運命です。失われるからこそかけがえない「至福の時」を、お姫さま自身がたのしんでいる――そんな自己陶酔的世界に共鳴できなければ、「森のなかのお姫さま」は愛せません。

「お姫さま」に扮する小泉今日子も、いちおううっとりした表情を浮かべています。しかし、心から酔い切れていないことが、あからさまに顔に出ていました。

 小泉今日子にも、彼女なりの「少女」や「儚いもの」へのこだわりがあります。たとえば、最近、ドラマ化されて話題を呼んだエッセイ「戦う女 パンツ編」の一節――。

「(中学生の私は)生きるも死ぬも同じように捉えていて、どっちでもいいような気がしていた。今もそのくらいの年の女の子に会うと心がザワザワする。確かにそこにいるのに、向こう側が透けて見えるような儚い魅力を感じる。触ろうとすると3D映像のように何もつかめないのではないかと不安になる。その年代が持つ一過性のものだと知りながら、その時期を過ぎてしまい、完全に実写の世界で生きている今の私には眩しくてたまらない」(注1)

 ここで語られている「少女」のありかたは、「森のなかのお姫さま」と似ているようでちがいます。小泉今日子が「眩しい」と感じているのは、生と死の対立を乗りこえ、この世の向こう側を見てしまっている存在です。「森のなかのお姫さま」は、そんなふうに真理と直面していません。森の外側について知ることを免除され、つかのまの至福に酔いしれています。

 子どもと大人の境目が、生死の彼方に接近しやすい時期だというのは、時代や環境にかかわらない真理です。いっぽう、「森のなかのお姫さま」がうっとりしていられるのは、生活の心配がないからです。未熟なまま自活しないでいる「ゆとり」がなければ、お姫さまにはなれません。

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