そんな彼らにとって、積極的に海外に出たり、仲間同士で学生団体を立ち上げて海外とつながっていこうという層は鼻につく、疎ましい存在だ。

「結局がんばっている自分が好きなんでしょ。無理して自分を高く見せようとしている感じが痛々しい」

 と語るのはある私立大学生。海外に興味はない。グーグルのストリートビューで十分。友達は少ないし大学でこれといった活動はしていないが、不自由もさみしさも特に感じてはいない。

 そんな彼らは、「海外」「コミュニケーション」「SNS」といったキーワードで大学生活を謳歌する学生たちを、どこか冷やかすように「意識高い系」と呼ぶ。

 意識を高く持って自己研鑽に励むのはいいことだとは思う。しかし若さゆえの過剰な自意識やコンプレックスが邪魔をして、友人をつくるのが難しかったり、あるいは経済的な事情で海外が遠い人々もいる。彼らにしてみれば、「意識高い系」は嫌味な存在に映るのだろう。そして、海外に行くこと自体が、自分が小馬鹿にしているはずの「意識高い系」の行為であり、憎悪すべきことなのかもしれない。

 若者たちは、海外に出なくなっているのではなく、二極化している。積極的に何度も行ってみる層と、背を向けて拒否する層。お互いに考えすぎなようにも思うが、どちらも若者らしくはある。

「クラスの中心になって張り切る層と、それをニヒルに傍観する層」。そんな図式は昭和の昔からあったはず。結局オジサンも若者も、あまり違いはないのだろうと思う。

(文・室橋裕和)