●需要のない自撮り写真

 第一に、インスタグラムやツイッターに掲載される自撮りに代表される、「需要なし」パターンである。

 おじさまが、仕事現場やプライベートで行ったレストランなどを背景に、スマホのインカメラで自分の顔を写す。若い娘やせめて若き肉体派のイケメンならまだしも、料理の写真とともにおじさまの顔をぜひ見たい、なんて思う人は基本的にはいない。

 友人とだけ繋がっているFacebookやLINEのタイムラインであればまだ、「あ、相変わらず元気そうだな」という感想は引き出せるかもしれないが、それもまた何かの記念の集合写真程度で良い。

 自撮りは若い女の子が、ああ世界って可愛い、そんな可愛い世界にいる私って最高に可愛い、と若さ特有のナルシシズムに浸るため、またその若さ特有のナルシシズムを愛でる男たちのために存在する。

 似たように、毎食毎食、食べたものを必ず写真に撮って、その簡素な料理写真を飽きもせず日々Facebookにアップしている様子もまた、その情報は誰が必要としているのでしょうかという感想しか引き出さない。

 ものすごく豪華なものを食べたから自慢したいとか、珍しいものを食べたから聞いてほしいとか、知る人ぞ知る名品だからぜひお勧めしたいとか、ものすごい量を食べるとか、それならまだ100歩譲って許容範囲だが、本当にごくごく普通のレストランのディッシュやラーメンの写真、あるいは別に大して面白くもない自分の料理したものの写真を見せられると、いや私あなたのライザップトレーナーじゃないから…という気分になる。

 今日何食べたよとか昨日何食べたとかいうのは、恋に落ちて批評能力を失ったアホな恋人たちが、どんな些細なことでもあなたの話なら聞きたい、という状況に陥って初めて需要が生じるようなことなのだ。

 これらは2つとも、若いおしゃれな女子のインスタを参考にしているように思える。

 確かに女子のインスタは自撮り写真やおしゃれな料理写真がたくさん登場し、レシピなどを公開している人も少なくない。外出自粛が続く今日この頃は尚更、普段より凝った料理に腕を振るって、出来上がりを全世界に発信している若者たちは多い。

 しかし、女子のインスタは、ものすごく気を使った画角や素敵なフィルター機能などを使って、こんな暮らしをしている私っておしゃれ、とか、私ってほんと可愛い、といったメッセージを発信していて、なおかつ悲しいかなそこに結構な需要があるのだ。

 若い女子に世界が求めているものと、頭もハゲ尽くしたようなおじさんに世界が求めているものは、不公平にも全然違うので、撮影する対象物だけ真似てみても、そこに似たような需要は全く生まれない。

●上から目線の説教的な長文

 第二に、前出のように、ツイッターやFacebookに長文で書かれる説教的なものである。

 これは個人差があり、謎めいたポエムのような独り言を綴る人から、自民党の悪口を長々と語る人までいるのだが、いずれにせよ、この人の意見が聞きたいという論客でもない限り、場違い感が漂ったり、偉そうな口調に嫌悪感が生まれたりする。

 これもまた悲しいかな、若い女の子が若い女の子であるというだけで、そこに良くも悪くも価値が生まれるようには、おじさんがおじさんであるというだけで、そこに聞く価値というのは生まれないのだ。

 それが特別敬意がなかったり人を傷つける内容でない限り、思ったことを発するのは誰にも認められた権利であるが、そういうどこか上から目線で、「皆のもの、俺の意見を拝聴したまえ」みたいな発言にオエッとなるこちらの権利もまた保証されたものであるし、大仰なことを言えば言うほど、「お前にそんなこという資格はあるのか否か」という自らの人間性のハードルを無駄に高く高く上げることになる。

 顔の見えないコミュニケーションや発表では尚更、人は名前と発言内容だけを受け取るので、そこにひとしおの可愛げや謙虚さがなくては、「自分も大したことないくせに」と言われなくてもいい屈辱的な発言を、自ら引き出していることになる。

 おじさま方だって、ほんの数十年前には、朝礼の校長の話が長い、結婚式の主賓スピーチが長い、と文句を言っていたのではなかったか。SNSを流暢に使いこなす若者にとって、年長者の懐古主義、あるいは若者を導こうとするような説教ほど鬱陶しいものはない。

 ただでさえ、若い部下やキャバクラ嬢に対して酒に酔った勢いでちょっと説教じみた口調で語りかけてしまうおじさんは多い。

 その嫌われる要素を、SNSなどという自分で完全にコントロールできるはずの世界で発揮する必要はないのだが、どうやら酒に酔うよりよっぽどタチが悪い、自分に酔うという状態に陥る人は多いらしい。

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好かれる人のSNS活用方法