分割直後から、スーパードライが誕生するまでの40年近くにわたり、アサヒビールはじわりじわりと真綿で首を絞められるように、シェアを落とし続けていたのです。60年ごろまではなんとかキリンビールに次ぐ2位を保っていましたが、いつの間にか3位の座が定着してしまいました。

 それでも、資産の切り売りなどで、利益はそこそこ出していました。そのため、長らく業界3位であっても、危機感が芽生えるどころか、社内には「なんとかなる」という空気がまん延していたのです。

 ぬるま湯の中にいるカエルのようなもので、徐々にお湯が熱くなってもそれに気づかず、そのうち危機的な状態に陥ってしまったのです。

●「チャンスの芽」はピンチのときに顔を出す

 85年のこと――この年、アサヒビールのシェアはついに9.6パーセントまで落ち込み、ビール業界に最後発で参入したサントリーがすぐ後ろに迫ってきたのです。当時のサントリーは勢いがありましたから、アサヒビールの最下位転落も時間の問題とされました。

 その前からリストラや工場閉鎖もあり、社員の間に徐々に危機感が漂ってはいましたが、いよいよ尻に火がついたのです。

 この状況で、当時の村井勉社長が「顧客満足の理念のもと、すべてを変える」という姿勢でコーポレートアイデンティティ(CI。会社のあるべき姿)改革を打ち出しました。

 村井さんの改革は、商品や企業イメージの刷新だけでなく、社員の意識改革も迫っていました。その後、5000人という大がかりな消費者の味覚調査を敢行。

 86年、CI改革を生かして、味やラベルなどすべてを刷新した「アサヒ生ビール」(通称コクキレビール)を発売しました。同時に「100万人の大試飲作戦」を展開し、私も営業部長として陣頭指揮に立ちました。

 一連の改革によって、販売面で好調の兆しが見えてきました。

 そうした流れの中で、87年にスーパードライが生まれたのです。

 チャンスはピンチの顔をしてやってくる──。

 ピンチになったときこそ、どこかにチャンスの芽が隠れているのです。

 それを見つけ出すのが、上に立つ人の仕事なのです。

【最強の言葉】
「チャンス」はいつも「ピンチの顔」をしてやってくる

(アサヒビール元会長兼CEO・福地茂雄)