●実は最後通牒ではなかった「ハル・ノート」

1941年11月の時点で、米政府は「全面協定案」(「ハル・ノート」の原型)と「暫定協定案」という2つの提案のいずれかを日本に提示する検討を進めており、後者は日米双方の譲歩を前提とする事態打開の方策を列記した内容でした。しかし、11月26日の朝、陸軍長官スティムソンから、日本軍の輸送船団が上海を出発し、台湾南方を航行中であるとの誤った情報を知らされたルーズベルトは、「(中国での)休戦と撤兵の交渉をしている最中に、新たな軍事侵攻の準備に着手するとは、明らかな背信行為だ」と激怒して、日本に対する態度を一挙に硬化させました。

その結果、同日午後5時にハルが日本側代表へと手渡した文書は、相互譲歩を前提とする「暫定協定案」ではなく、日本に対する一方的な撤兵要求を書き連ねた「日米間総括的基礎提案」(いわゆる「ハル・ノート」)でした。ハルが日本側に提示した「ハル・ノート」の内容は、日本軍の中国からの撤兵、汪兆銘政権(南京政府)の否認、日独伊三国同盟の空文化に加えて、全ての国家の領土および主権の尊重、内政不干渉、通商上の機会均等、紛争の平和的解決などで、その多くは日本側がそれまで進めてきた対外政策をことごとく否定するものでした。

そのため、日本軍上層部は「わが国が決して受け入れられない条件ばかり突きつけてきた」と激しく反発し、対米開戦はもはや不可避だとの意見が大勢を占めました。しかし実際には、「ハル・ノート」はアメリカ政府から日本政府への正式な要求文書ではなく、単にハル国務長官の覚書に過ぎず、書類の冒頭には「一時的かつ拘束力なし」との文言が記されており、戦争を前提とした「最後通牒」ではありませんでした。

それゆえ、例えば「中国からの撤退」という項目には満洲国が含まれないとの解釈も可能であり、日本軍上層部の意向を無視して考えれば、この「ノート」を土台にして、さらに日米交渉を続けるという選択肢もあり得たはずでした。また、もし日本軍上層部に「今までの日中戦争の進め方は誤りだった」と反省する合理的な思考力があったなら、この「ハル・ノート」を逆に利用して、中国からの撤退の口実にするのと同時に、「我々も言うことを聞いたのだからアメリカ側も他の分野(石油禁輸の撤回など)で譲歩せよ」との要求を突きつけ、日中戦争終結と対米戦回避の両方を実現できたかもしれません。

けれども、日本政府と軍の上層部は、この期に及んでもなお、自国民に対する自分たちの面子の維持に固執し、過去数年間にわたって積み重ねてきた「対外政策の失敗」を認めることができませんでした。今までのやり方は失敗だったと認めてしまったなら、政府と軍指導部の威信は失墜し、主要幹部の責任問題へと発展してしまうからです。

日本はこの時までに、日中戦争で約20万人の兵士を失い(負傷者を含めると約50万人)、国家予算の7割を軍備につぎ込んでいました。こうした過去の人的損失とコストの大きさも、政府と軍の指導部が自らの失敗を認めることを邪魔していました。日本の一部では、太平洋戦争の勃発は「ハル・ノート」という理不尽な要求を日本がアメリカに突きつけられたことで「やむを得ず」始まったもので、日本はいわば「罠にはめられた被害者なのだ」という自国中心の主観的な主張が、今も盛んに語られています。しかし、ここまで述べてきた歴史的事実の経過を踏まえて、客観的視点から見ればわかる通り、日米戦争はハル国務長官が提示した「ハル・ノート」によって、唐突に引き起こされた戦争ではありませんでした。

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山崎雅弘

山崎雅弘

山崎雅弘(やまざき・まさひろ) 1967年、大阪府生まれ。戦史・紛争史研究家。政治や民族、文化、宗教など、様々な角度から過去の戦争や紛争を分析・執筆。著書に、『[新版]中東戦争全史』『[新版]独ソ戦史』『[新版]西部戦線全史』『「天皇機関説」事件』『1937 年の日本人』『[ 増補版]戦前回帰』『日本会議』『歴史戦と思想戦』『沈黙の子どもたち』など多数。

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