初めは、『三國志』最大の悪役・董卓(とうたく)に仕えていましたが、彼がまもなく潰えると、次に長安を支配した李かく(りかく)に仕えます。しかしほどなく、李かくを見限って段わい(だんわい)の下へ。

 その段わいへの宮仕えも長続きせず、今度は張繍(ちょうしゅう)の下へ走り、その張繍が曹操(そうそう)に帰順すると、今度は曹操に仕えます。自分の仕える主君が何度亡びようとも、そのたびに主君を乗り換え、自分だけはしたたかに生き残り続けるという離れ業をやってのけた人物です。

 曹操には20年にわたって永く仕えましたが、その曹操が亡くなり、子の曹丕(そうひ)の御世になっても彼は筆頭の重臣(太尉)として厚遇され続けます。たいてい、先君に仕えた旧臣は新君から煙たがられますが、彼はそうしたこともなく、その天寿を全うし、大往生を遂げています。生え抜きの古参ならまだしも、これだけ主君を転々と変えながら、最後まで重用されるというのは本当に珍しいことです。

●「才をひけらかさない」という才能

 賈くは蓋世不抜の才を持った人です。たとえば、張繍の軍師であったとき、2回にわたって曹操の大軍に襲われたことがありましたが、これを小勢で撃退しています。一度は降伏したと見せかけて曹操を急襲、曹昂・典韋といった側近を討ち取ったのみならず、曹操自身をも討ち取る寸前までいったものです。

 彼は、正史『三國志』の編者陳寿が、「事に当たって失敗がなく、臨機応変に対処でき、張良・陳平に次ぐ人物」と手放しの讃辞を与えたほどの才を持った人物でした。そうであればこそ、同輩からは嫉まれ、主君を転々としている過去ゆえに主君からは疑われやすく、その天寿を全うすることは至難となります。にもかかわらず、彼が天寿を全うできたのは、一重に「その才を決してひけらかさなかった」からでした。

 もっとも、彼も最初からこうした処世術を持っていたわけではなく、自らの失敗から学んだ結果でした。

 彼の仕事は、参謀として主君を正しい方向へ導くことです。李かくに仕えたとき、自らの仕事を全うするべく、暴走する李かくに何度も諫言しますが、それにより李かくから疎まれる結果になります。そこで賈くはまもなく李かくを見限り、同郷の段わいを頼って彼に仕えるようになりました。

 しかし、ここでも彼は段わいからその尋常ならざる知謀を怖れられてしまいます。

「やつほどの知謀があれば、私の地位を奪うこともたやすいのではないか?」

 賈くに謀反の気などまったくなくとも、主君に疑われる存在となってしまっては、もはやいつ何時、痛くもない腹をさぐられて処刑されてしまうかわかったものではありません。彼は、段わいの下からも去らざるを得ませんでした。

 その参謀としての才は申し分ない。にもかかわらず、賈くがその職を真面目に全うしようとすればするほど、主君から疎まれ、妬まれ、怖れられ、かえって彼自身の命を殆うくしてしまいます。

 上に立つ者にとって、100点満点を取る部下は役に立つのでこれを重用しますが、200点を取る部下はかえって「危険」と感じるためです。こうした経験を何度も繰り返すうち、彼は「どんなに才があっても、決してそれをひけらかしてはならない」ということを学んでいったのでした。