上記声明文には「募金は本来」という表現があるが、その「本来の形」はいったい誰が決めたのか。僕は仕事柄、日本の寄付文化を牽引してきたリーダー的存在の人たちの話を何度も聞いてきたが、「寄付を集めるためには共感が必要」という話はみんなするものの、「共感してくれる人たちだけから寄付をもらうべき」などという主張は聞いたことがない。「募金は本来、支援先に共感してお金を出してもらうものです」というのはあくまで彼らの考え方であり、それをまるで寄付業界、NPO業界の標準的な考え方であるかのように主張するのは、まさに社会セクター全体にとって迷惑な話ではないだろうか。

●「冷徹な現実」と戦うことも、社会貢献のリアル

 お金に色はない。留意してほしいのは「寄付や社会貢献は、キレイごとではない」ということだ。たとえば、途上国の少女が1年間学校に通うために年間2万円のお金がかかるとすれば、それを支援するNGOは何としてもそのお金を集めたいと思うのが当然だ。仮に200万円寄付が集まれば、100人の少女を学校に通わせてあげることができる。しかし残念ながら、101人目の少女を助けてあげることはできない。その少女に対してNGOは「ごめんね。予算が足りないから、あなたを学校に行かせてあげられないの」と言わなければならないのだ。

 どこのNPOやNGOもこうした冷徹な現実と戦いながら、寄付集めを含めた活動を必死に続けている。それが社会貢献のリアルだ。そういったリアルを無視して「寄付は共感した人たちだけから」というのはあまりにキレイごと過ぎる、と僕は思う。

 ちなみに、この「おっぱい募金」はエイズ対策に役立てられるというが、この点についても、声明文ではこう述べられている。

《以下、引用》
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そもそも、エイズ対策と、おっぱいは関係がありません。
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 彼らは関係がないと言うが、僕は大いに関係があると思う。ご存じのように、エイズは性行為感染が最も多いと言われている。であれば、セックスに関連する場において、エイズに関する啓発を行うことは非常に有効性が高いのではないのか――。こうした見当違いな批判もまた、社会貢献活動を阻害する大きな要因になり得るだろう。

 以上3点が、僕の反論のポイントである。前述したように、当記事ではこのイベントの是非は問わない。ただ、「反対するなら対案を出す」というのがビジネス社会の原則であり、それは一般社会においても同様だと僕は考えている。

 だからこそ、もし「おっぱい募金」に反対するのであれば、ただ反対するだけではなく、毎年7000人が参加して600万円の寄付が集まる、そんな「対案」を出すべきではないだろうか。