堺屋太一の戦後ニッポン70年

  • 第11回 1950年代半ばの東京 ―復興と成長の狭間

    ■都電、肥桶、駄菓子屋 私が東京に来た1954(昭和29)年から55年にかけては「復興」から「成長」への転換期だった。まず東京に来て印象的だったのは、路面を走る都電と、街角に積まれる肥桶、それに駄菓子

    週刊朝日

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  • 第10回 先生と友達 ――少年時代は長かった

    第10回 先生と友達 ――少年時代は長かった

    ■だんだん短くなる「1年」 年を取るに従って「1年」が短くなる。 1年の実感は「それまでに生きて来た年数分の1」になると感じる。10歳の時は10分の1だが、70歳では70分の1。同じ1年でも7倍の速さ

    週刊朝日

    9/22

  • 第9回 「桃源の誓い」の衝立 ――人口問題への入り口

    第9回 「桃源の誓い」の衝立 ――人口問題への入り口

    ■父の蔵書 ――マルクス全集から三国志まで 私が小学生だった敗戦直後の4年間、テレビはもちろんないし、ラジオ放送も公共の2放送に限られていた。そのせいか、私はよく本を読んだ。 幸い家には父の蔵書がたく

    週刊朝日

    9/22

  • 第8回 教育優国・日本―教科書を大切にした子供

    第8回 教育優国・日本―教科書を大切にした子供

     戦災から敗戦直後の混乱期、私たち当時の少年たちが最も大切にしたのは教科書だった。疎開する時には誰もが教科書を後生大事に持参した。 日本は古くから教育の行き届いた国だった。明治維新の頃(1868年前後

    週刊朝日

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  • 第7回 敗戦直後の新聞 ―私も配達を経験

    第7回 敗戦直後の新聞 ―私も配達を経験

    ■発行され続けた新聞 日本の敗戦、それが現実の姿になったのは1945(昭和20)年3月から49年3月までの4年間だ。45年3月から空襲が激しくなり、4月には沖縄での戦いがはじまり、特攻出撃が常態化した

    週刊朝日

    9/2

  • 第6回 「もう3カ月早く」はないものねだりか

    第6回 「もう3カ月早く」はないものねだりか

     1945(昭和20)年8月15日、大日本帝国はポツダム宣言を受諾して無条件降伏した。その時は「なぜ降伏など」と口惜しがる人も多かったが、やがて「どうせ降伏するのなら、もう3カ月早くすればよかったのに

    週刊朝日

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この人と一緒に考える

  • 第5回 三切れの漬物

    第5回 三切れの漬物

     子供の頃、私の家では毎朝の食事に三切れの漬物が付いた。その理由を父はこう説明した。「東京は武士の街やから三切れは『身を斬る』に通じるというて嫌う。相手を斬る『ひと切れ』が歓ばれる。けど、うちは商売屋

    週刊朝日

    8/19

  • 第4回 戦災前の大阪

     戦災前の大阪は、180平方キロほどの市域に320万人余が居住する超過密都市だった。私の自宅の大屋根からの眺めでもそれは実感できた。下り坂の東の方には黒々とした屋根が続き、緑といえるものは生駒山までほ

    週刊朝日

    8/19

  • 第3回 「改革」を阻む「凡庸」

     世界の冷戦構造と日本のバブル景気が崩壊してから既に四半世紀。この間に、日本の経済成長力は大幅に低下、「世界最大の黒字」だった貿易収支も今や赤字になった。日本が世界経済(総生産)に占める比率は15%か

    週刊朝日

    8/5

  • 第2回 素晴らしかった小渕内閣

     小渕内閣は素晴らしかった。小渕恵三首相も良い首相だった。そのことは、まず内閣支持率に現れている。 小渕内閣の支持率は、朝日新聞の世論調査によると、発足当初は最悪だった。98年10月の調査(面接)では

    週刊朝日

    7/29

  • 第1回 1年の季節に似た「戦後ニッポン70年」

     作家・堺屋太一が新しく週刊朝日で連載を始めます。タイトルは「堺屋太一が見た 戦後ニッポン70年」。同連載と並行して、このWEB版では、雑誌の誌面連載で書ききれなかったこぼれ話、コラム、写真などを紹介

    7/22

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