1972年7月に就任した田中角栄内閣総理大臣は、持論の「日本列島改造論」を実現するために積極的な財政・金融政策を進めた。

 そのことは、日本復帰直後の沖縄にも大きな影響を与えた。

 何よりもまず土地ブームである。復帰直後から何百人もの不動産業者が沖縄に入り込み、地図を片手に歩き回った。田中首相が就任した7月頃には、地元の村議会議員や農協役員、建設業者らがそれに唆されてか、沖縄中で「土地買収話」が展開された。もちろん、銀行もそれに併せて貸し出しを緩めた。復帰と同時に那覇や中部海浜地の地価ははね上がった。それは翌年10月の「石油ショック」まで続く。

 次には各企業の「沖縄支店長」の群がやって来た。従来は輸出の一種として沖縄の代理店に任せていたものを「沖縄支店」を作って直売にする企業が増えた。このため一時は流通ルートが混乱することもあった。

 そしてもう一種類の人々――「反戦運動」や「反基地闘争」の運動員も入って来た。彼らは時には「ベトナム北爆反対」を叫び、時には「米軍基地返還」を叫んだが、過激さでは沖縄の「闘士」の方が上手だった。

 それでも、本土から来る反対運動家たちは、理論武装の点では一日の長があるようだ。石油備蓄基地反対の先頭に立った自称「海洋調査員」はその典型である。

 73年6月、自然保護運動で有名な大学教授が率いる一団が沖縄に来て「この美しい沖縄を海洋博覧会などで潰すべきではない」と抗議運動をしたことがある。ところが、会場近くの学校校舎で宿泊した教授と取材陣は、宿泊先の校舎でヤブ蚊に襲われたと大騒ぎ。「いくら自然のままがよいといっても蚊ぐらい退治しておけ」と怒鳴り散らして帰った。沖縄の自然にはヤブ蚊も含まれているのだが。

(週刊朝日2015年4月17日号「堺屋太一が見た戦後ニッポン70年」連載37に連動)