第25回 「田中角栄」とは何だったのか

堺屋太一週刊朝日#堺屋太一
 戦後の内閣総理大臣で特に印象深いのは田中角栄氏だろう。

 田中角栄氏が首相を務めたのは1972年7月7日から74年12月9日までの2年5カ月、決して長い期間ではない。それにもかかわらず、その存在感はきわめて強い。それには(1)「今太閤」といわれた出世物語(2)日本列島改造論の爆発的人気(3)日中国交正常化の偉業(4)石油ショックでの政策破綻(5)総理引退後の「闇将軍」(6)ロッキード事件の被告――という波乱に満ちた物語がある。

(1)出世物語

 私が田中角栄氏と直接お会いしたのは佐藤内閣の末期、当時通商産業大臣だった田中氏の秘書官の小長啓一氏に誘われて「日本列島改造論」の執筆を分担した時から計10回ほどだ。目白の豪邸に伺い、ウイスキーとカステラを食らいながら歓談したこともある。その際、田中氏はこんな話もしてくれた。

「俺は学歴も縁故もなかったからいろいろ考えた。俺が衆院議員に初当選して国会に来たときは先輩の偉い先生方が大勢いてね。俺なんか地元の陳情団を連れていってもなかなか会ってくれない。あとから来た連中が次々と先輩議員と面談するのに、俺はいつまでも待たされた。そこで俺は考えた。この入室の順を決めるのは誰か、それには各議員の部屋の前にいる女性の秘書がかなりの決定権があるらしい。それで俺は上野のアメ横で一斗缶にいっぱいあめ玉を買って来た。そして毎日、有力議員の女性秘書を回って『新潟の田中角栄だけど、これ一つ』といってあめ玉を配って回った。

 その効果はてきめん。一週間ほどして地元陳情団を連れて行くと、すぐ『田中先生どうぞ』といってくれたよ。地元の連中に『うちの先生は顔がきく』といわれたものだ」。

 田中角栄氏は豊臣秀吉流の人心収攬術にたけていたらしい。

(2)日本列島改造

 田中角栄氏の名を全国民にとどろかせたのは「日本列島改造論」だ。新幹線や高速道路を日本に設置して日本列島を便利な近代工業社会へと造り換えよう、という発想である。10年前の池田勇人首相の所得倍増計画は産業構造の面から日本を近代工業社会にしようとしたのに対して、田中角栄首相はインフラストラクチャーから説いたのだ。

 インフラを造るのは最も分かりやすい振興だ。それだけに全国が大いに湧いた。その表れが地価高騰である。

 この時、列島改造ブームでの地価高騰の特徴は、値上がりの範囲が広かったことである。当時は日本列島の1割、3万7千平方メートルの土地が急騰したという。これは当時の宅地面積の2倍以上に当たる。宅地化していない山林や原野まで値上がりしたのだ。

 ちなみにいえば、次の80年代後半のいわゆるバブル景気の時は、目立って値上がりした土地は全国でせいぜい4千万平方メートル、全国土の100分の1だったという。

 しかし、この「列島改造ブーム」の結果、多くの分野で供給力の限界にぶち当たり、モノ不足を引き起こした。既に「石油ショック」以前から、印刷用紙、セメント、鉄材の不足がいわれていた。これが「石油ショック」の衝撃を強めたのは否めない。

 当時の日本は国際石油市場と輸入原油価格の動向にあまりにも無頓着だった。田中角栄氏も世界を知らなかった。

(3)日中国交正常化

 前任の佐藤栄作首相は、中華民国の蒋介石総統に恩義を感じてか、アメリカに遠慮してか、台湾に撤退した国民党政府を「中国の正統政府」と見なす姿勢を変えなかった。

 ところが72年2月、アメリカのニクソン大統領が中国を訪問するに及んで、共産党政権を中国国家代表として認めざるを得なくなった。日本と中国の国交回復は「次の内閣」の避けては通れぬ道だったのである。

 72年7月に総理大臣になった田中角栄氏は、直ちに中国訪問と日中国交正常化を模索した。当時の中国は文化大革命の最終段階。前年には、一時「毛沢東主席の後継者」とされていた林彪国防相がソ連に逃亡する途中で事故死する事件も生じていた。要するに、この時期の日中国交正常化は日中双方にとって必然的事項だったのである。

 日本列島改造論は田中角栄氏ならではの政見だが、日中国交正常化は田中氏でなくても実現したであろう。

(4)石油ショック

 田中角栄内閣の前半1年ほどはきわめて好調。「田中内閣は佐藤内閣を上回る長期政権になるだろう」とさえいわれた。田中首相は1918年生まれ。前任者の佐藤栄作氏よりも17歳も若かった。日本列島改造論と日中国交正常化で人気は上々だったし、自由民主党内の派閥も抵抗できなかった。それだけに、当面は田中政権は盤石不動と見られていた。それが発足1年3カ月目に生じた石油ショックで様相が一変する。

 この年12月10日、政府は三木武夫副総理を首相特使としてアラブ諸国を訪問させ、高値の石油を輸入した。それにつられて、いろんな政治家や商社マンが中東・アフリカ諸国に飛び、高値の石油を買い集めた。中には、リビアのカダフィ議長が不法に国有化宣言をして差し押さえていた欧米メジャーの石油を高値で買い付ける者もいた。日本は一瞬にして反米親アラブの国になったのである。

 こうした状況を反映して国内の物価は急騰。12月には前月比7.1%も上昇した。48年9月の8.1%以来の急騰である。

 ここに至って田中首相の人気は急落、様々な批判が生まれた。その中には「田中首相は新幹線や高速道路に血道を上げ原子力発電をおろそかにした」という批判もあった。それを受けて、74年7月三木武夫副総理、福田赳夫大蔵大臣の2人が辞任した。また、文芸春秋の74年11月号は、田中総理の金脈や女性関係を暴く記事を特集した。

 日本列島改造論で燃え上がった田中人気は、石油ショックで急落したのである。

(5)闇将軍とロッキード事件

 74年12月7日、田中角栄氏は首相を辞任、後継首相には「クリーンなイメージ」を買われて三木武夫氏がなった。

 それでも最大派閥の主導者としての田中角栄氏の勢力は強く、以降85年2月に病で倒れるまで政界に勢力を保った。

 76年7月、田中角栄氏はアメリカのロッキード社より5億円の不正献金を得ていたとして橋本登美三郎元運輸大臣らと共に起訴された。それでもなお自民党内での勢力は衰えず、「反田中」の三木、福田の両内閣を倒し、大平内閣、鈴木内閣をつくった。次の中曽根内閣は「田中直系」ではなかったが、世間では「田中曽根内閣」とも言われた。

 この時代の田中氏は「闇将軍」と呼ばれた。田中氏の闇将軍時代は85年2月に竹下登氏が派閥を割るまで、約6年2カ月も続く。日本の政界の長い梅雨の期間ともいえるだろう。

(6)田中角栄とは何だったのか

 田中角栄氏の存在は、戦後史を語る上では避けられない問題である。その回答は本誌の連載またはこのインターネットでも書いていきたい。

(週刊朝日2015年2月27日号「堺屋太一が見た戦後ニッポン70年」連載30に連動)

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