■ローマで「金髪の友人」と再会

 1968年の海外旅行の話を続けたい。この旅が次の仕事に絡むからだ。

 7月上旬の日曜日、モーリシャスを出発した私は、単身マダガスカル経由でタンザニアのダルエスサラームに戻り、その日の東アフリカ航空の夜行便で北へ飛んだ。南十字星の美しい夜だった。

 翌日の朝、ローマ空港に着いた。そこには、東京の路面電車で知り合った「金髪の友人」ベート(エリザベート・マイジンガー)さんが迎えに来てくれていた。彼女は私に会うためにドイツ中部のニーダーザクセンから飛んで来たのだ。

 彼女は豊富な知識でローマの町を案内してくれた。車中で古代ローマのトイレ課税とか、ローマ軍団の工兵編成とか、学校の教科書には出ていない話を数多く教えてくれた。そして「暇があればニーダーザクセンの私の村に来て下さい。大したものはありませんが、シトー派修道院の廃虚とリーメンシュナイダーの木彫があります。でも他で見られない名物がありますよ。鉄のカーテン。日本では『ベルリンの壁』ばかり報道されているが、ドイツを縦断する田舎の鉄のカーテンはあまり見る人がいません。私たちの村は、周りを金網と監視塔で取り囲まれているのですよ」ともいった。私が彼女の村を訪ねたのは、それから10年以上もあとのことである。

■「金を買いなさい」とベートさんは勧めた

 しかし、たった半日の旅行案内の間に、彼女が最も多く語ったのは、「金を買いなさい」という話だ。

「現在の国際通貨体制には無理があります。1オンス31.1グラムを35ドルに固定していたのでは金の生産コストに引き合わず、産金量は減り続けます。南アフリカの金鉱労働者の賃金も上がりません。もうすぐこの通貨体制は破綻し、金の値段は跳ね上がります」というのだ。

「日本では金は輸入禁止だから買えないよ」と答えると、「とんでもない。金の現物を移動することなどめったにありません。チューリヒの銀行に預けてイヤーマーク(耳札)だけ持ち帰ればいいんです」という。

■商品先物取引の話

 私はこの時、金の取引から広まった金属取引所の話を聞いた。世界の金属取引価格はロンドンの取引所で決められている。そこで買えば現物を動かさずに相場が張れる。当時の日本では聞かない話だった。結局、金の価格が上昇しそうなことを説得され、少しは心が動いた。だが、金先物を買うほどの勇気も資金もなかった。わずかにオーストリアのフローリン金貨を3枚金貨店で買い、ひそかに持ち帰っただけだった。それは今も私の机の引き出しに入っている。

 それよりも、この時ベートさんから聞いた話は、通産省の次の仕事、銅価安定基金の設立や為替変動対策に役立った。

 1968年夏―日本はまだ工業国間の水平分業には加わっていなかったのである。

(週刊朝日2014年12月12日号「堺屋太一が見た戦後ニッポン70年」連載20に連動)