■難しい万国博覧会の開催

「万国博覧会」とは、国際博覧会条約に基づく最大規模の国際博覧会を指す日本語である。国際博覧会条約は、国際博覧会の乱立を防止するために締結された条約だが、何度も改定されているので、その内容を説明するのは難しい。ただ終始変わらないのは最大規模の行事(現在は登録博覧会―かつては一般博覧会)では、「出展各国は自己の費用と責任で展示館を建設しなければならない」と決められている。一方、最大規模以外の行事(かつては特別博、現在は認定博)では、「展示館は主催者が用意し出展国は内部展示のみを行う」と定めている。

 当然、一般博覧会(登録博)の規模は巨大化し、出展各国の出展費用も巨額になる。容易に各国の承認が取れないのも無理はない。オリンピックのように民間団体が主催して4年に一度必ず行われる行事ではないのだ。

 このため、第2次世界大戦後に開かれた条約公認の最大級博覧会(真の万国博覧会)はきわめて少ない。1958年のベルギー・ブリュッセル万国博、1967年のカナダ・モントリオール万国博、1970年日本万国博、そのあとは1992年のスペイン・セビリア万国博、2000年のドイツ・ハノーバー万国博、2010年の中国・上海万国博の5回に過ぎない。

 1964年~5年に行われたアメリカのニューヨーク世界博は条約外の非公認博覧会、1975年の沖縄海洋博や2005年の愛知「愛・地球博」は、各国展示館の建設を許さない特別博覧会である(従って「愛知万国博覧会」と呼ぶのは間違いである)。

■万国博開催権獲得作戦―英連邦を崩せ

 1965年、日本はこの最難関の万国博覧会に挑戦した。当時の条約では世界を欧州と南北アメリカとその他地域に分け、「同一地域では6年以上、異なる地域では2年以上間隔をあけること」になっていた。カナダのモントリオールとアメリカのニューヨークは同じ南北アメリカ、このためニューヨーク世界博はモントリオールとの競り合いに敗れて非公認行事となった。

 ところが日本の大阪は「その他の地域」ではじめての万国博、中2年明けた1970年には最大規模の行事ができる。対抗馬はオーストラリアのメルボルンだが、こちらは空港を移転して会場にする計画だから1973年より早くはできない。「その隙を狙え!」と大阪は燃えた。1965年4月に首相になった佐藤栄作氏も燃えた。

 当時の日本には活力があった。大阪にも活気と情熱があった。

 私たち通産省の担当者と大阪商工会議所メンバーは万国博開催権を取る戦略を立てた。「速度こそ武器、加盟各国に支援を求めている時間も資金もない。まず、オーストラリアの友好国、英連邦を崩せ」と考えた。隣国のニュージーランドは羊毛輸入で日本と親しい。ここを狙って大阪の羊毛輸入企業に一斉に口説きにかかった。

 次はカナダ、「モントリオールの次がメルボルンでは英連邦の都市が二度続くのでいかがなものか」と口説いた。

 そして最後は博覧会国際事務局。「日本が先願するのなら妨げない」の言質を得た。わずか8カ月、運動費4千万円で万国博開催承認を得たのである。

■もう一度万国博を

 大阪が万国博覧会の開催承認を得たのは幸運だった。だがその背景には綿密な戦略があった。当時の駐フランス大使の萩原徹氏は、「戦後最大の外交的勝利」と狂喜したものだ。まだ「沖縄復帰」が決まる前のことである。

 さて、21世紀に入って国際博覧会条約は大改正され、全世界で5年に一度程度、最大級の国際博覧会(登録博覧会)を開催する方針になった。これに基づき、2010年には上海国際博覧会が開催された。次は2015年ミラノ国際博覧会、2020年は中東の新興都市ドバイでの開催が決定している。ペルシャ湾岸諸国は大喜び、航空会社は新鋭機を大量発注している。

 さてその次、2025年あたりに日本でもう一度万国博覧会をやったらどうだろうか。

 日本万国博覧会は前回の東京オリンピックの10倍の入場者を動員して大きな黒字を残した。2020年の東京オリンピック・パラリンピックの次にもう一度日本万国博を開催すれば猛烈な国際観光振興となるだろう。幸い前回の万国博会場はあまり手付かずの状態で残されている。費用はわずかで大きな経済文化効果が期待できる。

 国際的歴史的にも、同じ場所で複数回の万国博を開いた例は三つ。シカゴは2回(1892年と1932年)、パリは5回(1867年、78年、89年、1900年、1923年)である。

 ニューヨークは1939年に開催、すぐ第2次世界大戦に突入したので跡地が整備されなかった。同じ場所で64~5年の世界博を開催した。問題は21世紀の日本人に、1965年ごろの知恵と気迫があるかだ。

(週刊朝日2014年11月28日号「堺屋太一が見た戦後ニッポン70年」連載18に連動)