「失敗した事業の責任者はただ1人だが、成功した事業には万人の功労者がいる」という。逆にいえば「あれは俺がやった」という人が増えればその事業は成功なのだ。そんな時、あえて「あれは俺がやった」といい張るのは危険なことでもある。「功労者」と称したい人々を敵に回す恐れがあるからである。

 1970年に日本万国博覧会については、はじまった瞬間から今日に至るまで「万国博は俺がやった」という人が増え続けている。そしてそういう人々のほとんどは、決して嘘をついているわけではない。それぞれの局面で事の成否を左右するような事態に遭遇。実現可能な道、あるいは成功への要素を作った人は数限りなく多い。

 まず開催決定まで。私は大勢の人々に恥も外聞もなく頼み回った。この時点で賛同し他人にも呼び掛けてくれたのはごく数人。通産(現経産)省の2人の課長と数人の若手、大阪商工会議所の専務理事と大阪市の経済局長、豊田雅孝参議院議員ぐらいである。

 大阪府の左藤義詮知事は当初慎重派。のちに私に漏らしたところでは「中馬馨大阪市長に万国博の開催をいわれた時には本当に悩んだ。三日ほど夜も眠れずやっと決断した。わしのあの決断で万国博が実現したんだ」という。おっしゃる通り、知事が反対では実現しない。何しろ百万坪の民有地をたった101日で残すところなしに買い上げをさせたのだから。それも新幹線や名阪高速道路の用地買収を経験した人々を相手にである。

 万国博開催の日本政府の意向を国際博覧会事務局に取り次いだ時の駐フランス大使萩原徹氏も「万国博は俺が決めた」という一人だった。この人は間もなく日本万国博覧会日本代表の地位に就いた。

■万国博準備設計段階での功労者

 1965年9月14日、1970年万国博覧会の日本(大阪)開催が国際機関で正式に決定してからは、準備設計の段階に入る。ここでも様々な「功労者」が登場する。まずは日本万国博覧会協会初代事務総長新井真一氏に選ばれた「テーマ委員」、副委員長桑原武夫氏に招かれた梅棹忠夫氏、小松左京氏ら「サブ・テーマ委員」はかしましい。「テーマはキャッチフレーズ」といわれる通り、この人々の広報力は大きかった。

 次いで会場設計。特に建築プロデューサーの丹下健三氏、展示プロデューサーの岡本太郎氏、催し物プロデューサーの伊藤邦輔氏は、それぞれの分野で大きな役割を果たした。特に岡本太郎氏は、その後継者の平野暁臣氏が岡本太郎美術館を今も運営、2013年には「大阪万国博」という写真集を小学館より出版されている。確かに丹下氏や岡本氏の仕事は素晴らしかった。もし、後世の歴史家がこの本を資料に日本万国博覧会の歴史を語るとすれば、巨きな船の甲板上の構造物だけを描くようになるだろう。

■万国博事業を支え進めた人々

 万国博覧会という巨大な事業を推進し成功させた基礎部分(船体と推進力)となったのは、目立たぬ事務と調整に当たった人々だ。そんな功労者として、私はあえて、数人の名を挙げたい。

 第1は、日本万国博覧会協会の事務総長は4年間務めた鈴木俊一氏(のち東京都知事)。この人は戦前の内務官僚で直前まで東京都副知事だったが、美濃部亮吉氏との選挙戦を危惧した自由民主党政権が立候補を抑えて万国博の事務総長に据えたものだ。そんな経緯にもかかわらず至極熱心、大阪府や大阪市、民間企業などの出向者ばかりの事務局をよく取りまとめた。

 何より感心したのは大阪事務局本部に常駐、東京へ出張することが滅多になかったことである。だからこそ大阪府や大阪市からの出向職員もこの人にはよく従ったし、佐藤栄作首相や石坂泰三会長の信頼も厚かった。

 2人目は通産(現経産)省の3代目担当審議官の橋本徳男氏(のち立地公害局長)だ。初代と2代目の審議官な短期間で交代したが、橋本氏は2年余を務め、大蔵折衝や国会対策をこなし、日本万国博覧会の財政的組織的骨格を作り上げた。芸術家とも民間人とも報道機関ともよく交流する一方、大臣や会長にも臆することなく発言した。私を自由に泳がせてくれたのもこの人である。

 3人目は芦原義重副会長秘書役の岸田孝一氏(のち関西電力専務取締役)、政府と大阪府、財界、報道界の調整役として、いわゆる根回しに努めてくれた。当時、電力会社は豊かな交際費があり、意欲的な活動をしていたものだ。

 もう一つ加えるならば、当時の報道機関が「よい話」を流してくれたのも万国博の成功につながった。特に毎日新聞の千葉行氏、読売新聞の前田昭夫氏、日本経済新聞の田勢康弘氏らは、読者の夢を膨らませる記事を発信した。そうでなければ、長時間の行列でも列を乱す者が出ない、という整然とした状態は生まれなかっただろう。

 万国博覧会は勝者と敗者に分かれる世界ではない。心底から「われらみな勝者」と呼べる行事だった。

(週刊朝日2014年11月21日号「堺屋太一が見た戦後ニッポン70年」連載17に連動)