1940(昭和15)年に計画された「紀元2600年」記念万国博」の予想図(朝日新聞社蔵) (c)朝日新聞社
1940(昭和15)年に計画された「紀元2600年」記念万国博」の予想図(朝日新聞社蔵) (c)朝日新聞社

「偉くない人が創る大事業」として、豊臣秀吉に仕えた石田三成の例を挙げた。

 実際、この時(1964年)、石田三成に興味を持って本格的に調査したことが、後に役立った。

 豊臣秀吉が死んだ慶長3(1598)年旧暦8月18日から関ケ原の合戦が行われる同5(1600)年9月15日まで22ケ月(慶長4年には閏3月がある)。750日ほどの間、石田三成がどこにいたか、ほとんど確定することができた。そしてそれから、この人物が何を考え何を企て誰を誘ったかも大体分かった。

 私は後年、この時の調査に基づいた歴史小説「巨いなる企て」(上下‐毎日新聞社)を書いた。30版を重ねた大ベストセラーだが、ここでのテーマは石田三成の関ケ原合戦をプロデュースするまでの企画と推進である。従ってこの小説は、関ケ原合戦のはじまる寸前で終る。

 万国博の開会式を迎えた瞬間に「仕掛け人」としての私の役目は終ったのである。

(週刊朝日2014年11月14日号「堺屋太一が見た戦後ニッポン70年」連載16に連動)