1958(昭和33)年ごろの川崎製鉄千葉製鉄所(朝日新聞社機から撮影)(c)朝日新聞社
1958(昭和33)年ごろの川崎製鉄千葉製鉄所(朝日新聞社機から撮影)(c)朝日新聞社

 1960年、私が通商産業省(現経済産業省)に入った頃は、日本が近代工業社会に向かって必死の岩登りをしている最中だった。通産省はそれを象徴するような役所だった。

 通産省は、この年から庁舎が移った。大蔵省(現財務省)ビルの後の中型ビルから、大蔵省の真ん前の表通りの新しいビルに移ったのである。「このビルは自衛隊の工兵隊の演習費で建てられた」という噂もあった。実際、それにふさわしい安直さで、9階建ての長方型、外装はモルタル塗り。冷房はもちろん無し、暖房の効きも悪い。完成直後は外務省や防衛庁が入っていたらしい。要するに通産省のために新築された建物ではない。

 私がこのビルに通うようになってまず驚いたのは、「軍需省」と書いた黒いスチールロッカーが並んでいたことだ。日本はまだまだモノ不足、20年前に「特別配給」されたスチールロッカーをまだ使っていたのだ。

 それ以上に驚いたのは、その中に半紙を四つ切にした古い書類が詰まっていたことだ。

 半面には謄写版刷りの文字が付いている。よく見ると軍需省時代の会議資料や事務報告だが、裏面をメモ用紙に利用できるとして残したらしい。

 通商白書の統計をメモにするのは大抵こんなメモ用紙、何気なく表の文章をみると「昭和20年7月10日、物資調整会議、出席者陸軍中佐○○、海軍大尉○○」などとあり、物資の配分を巡って陸海軍が角突き合わす様子が分かったこともある。

 当時の通産省の課長以上はほとんど軍隊経験者、中には南洋諸島や海軍艦艇で実戦を経験した人もいた。

 1960年代の官庁の長時間労働と厳しい新入者教育には、先輩たちの軍隊経験が影響していたのかも知れない。軍隊経験者がいなくなるのは私よりも10年前の1950年度の入省者からだ。

(週刊朝日2014年10月24日号「堺屋太一が見た戦後ニッポン70年」連載13に連動)