私の大学生時代の4年間のほとんどは岸信介内閣、つまり戦後体制の確定期といえる。

 戦後の日本には明確な国是が二つあった。国家のコンセプトといってもよい。

 第1は、「西側アメリカ陣営に属して経済大国・軍事小国を目指す」という外交防衛コンセプト。

 第2は、「官僚主導で規格大量生産社会を目指す」という経済社会コンセプト。

 第1の外交防衛コンセプトは吉田内閣で提示され、岸内閣で確定した。第2の経済社会コンセプトは岸内閣で提示され、池田内閣で確立した。今日まで続く戦後体制は、このコンセプトに基づいている。

 このコンセプトのもと、三つのサブシステムが作られた。第1は親族とも近隣ともあまり付き合わず、職場の縁に帰属意識を持つ「核家族・職縁社会」、第2はすべての頭脳機能を「東京一極」に集める国土政策、第3は学区制で入学する学校を決め一律の教育を押し付ける「没個性化教育制度」である。

 今、アベノミクスが挑戦している岩盤規制は、これらによってできたものだ。

 保守政党と左右の社会党が合同統一されて「左右対立下の自民党政権」が続いた40年近くの間に「戦後体制」は確立され強化された。「60年安保闘争」は、官僚たちが保守政治家や大企業を牛耳ったサラリーマン経営者群と共に進めようとしていた「戦後体制」に対する「最後の異議申し立て」だった、といえる。

 60年安保闘争は学生の間では激しく燃えたが、国民的支持に乏しく、全国的には燃え広がらなかった。わずかに九州の三池炭鉱や国鉄の一部労働者が支援した程度である。

 国民の大部分は、戦後体制が掲げた2つのコンセプトを支持していた。1960年の日本国民の大部分は規格大量生産型の近代工業社会を支持し待ち望んでいたのだ。

 約10年後の1968~69年にも学生運動は燃え広がった。世間ではこれを「70年安保闘争」と呼んだので「60年安保闘争」の再演のように思う人もいるだろう。だが、本質は全く違う。「70年安保」は「膨れ上がった団塊の世代が通り過ぎる風」に過ぎない。学生たちの中からも体制変更を求める声はほとんどない。あくまでも「学園紛争」の域を出なかった、というべきだろう。

(週刊朝日2014年10月17日号「堺屋太一が見た戦後ニッポン70年」連載12に連動)