戦災から敗戦直後の混乱期、私たち当時の少年たちが最も大切にしたのは教科書だった。疎開する時には誰もが教科書を後生大事に持参した。

 日本は古くから教育の行き届いた国だった。明治維新の頃(1868年前後)でさえ、日本では成人男子の半分、女子の4人に1人ほどが寺子屋や修養塾などの教育機関に通った経験があり、識字率も5割以上に達していたといわれている。幕末の石門心学塾の絵図では、中央をついたてで隔てて左右に分かれて男女の生徒が座っている様子が描かれている。

 同じ頃、最も進んだ工業国イギリスでも、教育機関に通った経験があるのは成人男性の1/4程度、女子の入学を認める教育機関は全くなかった。

 そんな伝統のある日本は、教育の優れた国(教育優国)。戦中戦後も学校は続けられていたし、生徒も教科書を大切にした。

 ところが、敗戦の年末か翌年の春だったか、その教科書に突然「墨を塗れ」という号令がかかった。新しい教科書を作る時間的余裕も、紙の手当もなかったのだろう。戦争中の教科書で軍国的皇国史観的な部分は先生の号令で墨を塗って消した。それでも生徒の少年たちは教科書を尊重、敗戦後も日本国民の識字率は常に100%だった。

 敗戦直後の学校は、夏は暑く冬は寒く、衛生状態も食糧事情も悪かった。それでも学校をズル休みする者も、保健室で寝ている者もいなかった。「子供は学校に通うもの」と決まっていたのである。

 学校で学ぶのは読み書き計算だけではない。時間感覚、規律の習慣、仲間との協調など人間社会の基本全体だ。

 やがて日本経済が「奇蹟の高度成長」を果たすのにも、国民の識字率と基礎計算力、そして秩序感覚の高さが大いに役立った、といわれている。

 今後も日本が「教育優国」の伝統を守れるだろうか。

(週刊朝日2014年9月19日号「堺屋太一が見た戦後ニッポン70年」連載8に連動)